和 賀 心 時 代 を 創 る



ばかとあほうで道を開け (福岡初代)
信心辛抱さよして居れば物ごと整はぬ事なし (久留米初代)
こりを積むな こりを積ますな 身をつつしめ (三井初代)
信心をよごす 御道をけがす 心配をさすの三すを奉れ (親先生)

第四章 布 教


牡丹に唐獅子

選民の中の選民

前日から引き続きの事で、お疲れの事だと思います。疲れますけど好きな事で疲れるのですから、もう実に快い疲れですね。私も昨日から引き続き皆さんとこうして信心の話をさせて頂いとる訳ですけれども、今朝もとうとう朝食を取る時間もございませんでした。

御結界の奉仕がいっぱいございましたでしょう。それから御飯を頂こうと思って食膳に向かわせて頂いたところに、若先生が「もう始まりますよ」と言って来ましたから、牛乳を少し頂いてまいりました。けれども実に有難い快い疲れとでも申しましょうか。皆さん、どうでしょうか。

私、皆さんに、本当に思います事はね、信心する者を天地の親神様は「信者氏子」とお呼びになっておられます。総氏子の中にも、お道の信心させて頂く者を以て、また特別に「信者氏子」とお呼びになっとられます。

その中でも道の教師を志す者、また志さなければならなくなった人達、これはその中でもまた、もっと言葉があるならどういう風に言ったらいいでしょうか。「選民の中の選民」とでも申しましょうか。選ばれた上にもまた選ばれた氏子という自覚がね、各々なからねばならんと思います。皆さん、そこんところは各々お在りになると思いますけれども、只今班別懇談の時に出たという話をざっと聞かせて頂いて、まあ思うのですけれども、例えばね「牡丹に唐獅子」といったようなね、これは絵なんかでよく見ますと、牡丹に獅子が戯れておる。いわゆる牡丹に唐獅子である。

私どもが神様に特別にお引立て頂かねばならない、また神様に特別の目を掛けられておる、いうならば白羽の矢が立った。それが「選民の中の選民」。私は取次者の自覚でなからなければならんと思う。だから、そこの自覚が出来てまいりましたらね、今皆さんが大体言われた事は全部解決するのじゃないですかね。

「自分は特別に神様に愛されているのだ」 「特別に自分は可愛がられているのだ」と特別に神様が、これはいうならば「これは大坪総一郎だけにしか出来ん事があるのだな」と感じさせて頂く訳なんです。ですから、神様は私どもをですね、もう馬鹿のごと『右向け』『左向け』というような場合には無理無体な事をです、若い身空の皆さんを御結界に座り込めとか、さっきいろいろ修行の話が出ておりましたが、それこそ存分に手足を伸ばして、まあ遊びもしてみたいという若い身空の皆さんに、御結界に座り込む修行とか、神様を分かる為に火の行も水の行も厭わんような気持ちがいるとか言われますが、もう私は本当に無理だな、可哀想だなと思う。


教師を志すもの

私は、池上先生(現星野副教会長)が学院で御修行の時分に、親先生の御供をして御本部参拝した時に、控えの方から黒衣を着て私どもを迎えに来て下さっておる池上先生に会った瞬間です。まあ何という厳しい事であろうか、何という可哀想な事になられるんだろうか。一生をお道の為に捧げるという誓約を入れられてからの、あの黒衣姿である。もうあの黒衣姿がね、もう尊いものであると同時に気の毒だな、可哀想だな、金光様の先生といえば、とてもとても自分の子供達やらはなされんなといったような気がしたのです。それ程しに気の毒な、まあいうならば可哀想な事です。

けれども自分からそれを願う。また、そういう事にならなければならない羽目にいわばなったのですから、折角お道の教師としてお取り立てを頂き、お取次の御用に使うて頂くならばです、本当に教祖が仰る『人が助かる事さえ出来れば』との一念を燃やさしてもらって、そこに若いながらも生き甲斐を感じさせて頂くと、その根本になるものはね、私でなければ出来ない事があるんだ。池上先生でいうなら、この山の中の星野という村ですか、町ですかね、そこにはもう池上先生が居られなければできないのだというような自覚が出来て、その為には神様にどんな無理難題を言われてもそれが好きでする事でありますから、また神様に好かれているんだ、神様に誰よりも愛されておるんだというところから、無条件に、神様の前に無条件の降伏が出来る訳である。

そこから『右向け』『左向け』『さあ、手を上げよ』『足を上げよ』と言われれば、その通りの事がなされるようなおかげが楽しゅう段々出来て来るようになると思うのです。

ですから、皆さんは天地の親神様から見ると、牡丹の花のようにある訳なんです。だから獅子は、例えば親神様と例えましょう。獅子は自分の子供を千仞の谷に突き落とすと言われます。確かにそういう働きを私どもの上に下さるのです。これは普通、氏子、信者氏子と呼ばれ、特に信者氏子のまた氏子、またその中から選ばれたのがお道の教師だという風に申しております。

ですから、選ばれた上にも選ばれた私どもという自覚、誰よりも神様に愛されておるという自覚、そこが根本のところにございませんと、修行が億劫になりましたり、自分で自分が可哀想だなあと思わなければならないような事になる訳であります。

ですから、信心には『素直』という事が求められる訳です。生まれ付き素直な人がある。生まれ付き強情な人がある。信心でいう素直というのは、そういう生まれ付き持っておるような素直さとは違うように思う。只今申しましたような根本のもの、いわゆる「選民の中の選民」としての自覚が出来るところからあなた任せという心が生まれてくる。

昨日より初めて皆さんに聞いて頂いた、私と神様との対話といったような事、まあそれは何と言ったら良いのでしょうか。霊徳というか、神徳というか、そういうところもですね、只今申しますところから出発した信心から容易に入って行けると思うんです。


四百四病の病より

これは、私がいよいよ商売も駄目になりましてね、沢山の借金が出来てその借金の返済に四苦八苦しておる時分の事でございました。

福岡にその当時は、日蓮上人様の像がありますね、あの辺に居られました松枝という方がまあいうならばその当時、闇の元締めをされとったような方でした。現在では野球場(平和台球場)があります。今、あの近所で薬局をしておられます。その方のところに随分借金がございました。私もよく信用して頂いて、まあいろいろ可愛がって頂いたんですけど、いよいよ商売が駄目になって行き詰まっておる時分でした。それでも借金の返済の為にいろいろ工夫しましたけどなかなか出来ない。それでもやはり約束の日には断りに行かなければなりません。当時はこちらの椛目の方へ帰っておりました。

もう初めから当てはないのですけれども、何時何時は出来ると言わなければ承知しないのてすよね。本当に「四百四病の病いより、貧ほど辛いものはない」と昔から言いますが、もう借金の断りぐらい身に応えるものはありませんですね。

皆さんは未だそういう体験はおありでないと思いますけどね。それは二遍三遍が嘘になる位ならいいですけど、やっぱり約束した日には必ずまあ断りによう行かされました。その頃はもう神様からお知らせ頂いておりましたから、本当にですね、その方の家にまいりますとなかなか玄関に入られんのです。だから、家の周りをぐるぐる廻ってね。『さあ、元気を出して入れ』と神様は申される。ですがなかなか足が中に入らん。また、どういう顔をされるか分からん。まいりますとね、その方の居間に電気スタンドが置いてあって、その床の間に丸い壺が飾りに置いてあった。そして、こちらにバナナの造り物が置いてあった。それを頂いてから今日も私が行くと、ブーと脹れているような顔をした親父がね、もう十回も十五回もなりますと「また嘘言いに来たのか」と頭から言っていました。

もうそのブーとした顔を見るのが辛くてですね、こちらはバナナじゃないけれども、こちらは身の皮剥いで持って行きよる。それを少しでも明るくして下さるのがそこの奥さんでした。電気スタンド、まあそういう情景を御理解頂きながらです、そういう十五回も十六回目でもございましたでしょうか。善導寺から、私はその当時、バスで行くより幾らかでも安いと思って電車を利用しました。


末は横綱か?

ちょうど、大城の駅までまいりましたら、そこに私どもが子供の時によく知っておりました小川さんという桶屋さんです。年配も私とあんまり変わらん位です。そこの親父さんが電車を待っておる訳です。どうも一杯機嫌のようです。

「大坪さん、こげんところに来て何処へ行くか」 「福岡へ行く」 「福岡へ行くとなら、善導寺からバスで行きゃよかとに」 「いや、いろいろ都合があってから、ここまで来たんだ」 と言うて二人でその話をしよりましたら、小川さんが私にこういう事を話すんですよ。

この頃、旗崎に東京相撲が来た。あれは、照国というお相撲さんが横綱の時分でした。先月からその相撲を見に行ったという話です。その旗崎の前に善導寺にも来ておりました。

その時に子供を照国に抱いてもらって、写真に写してもらった。だから御礼に旗崎に行ったという話です。その当時、お酒もなかなか手に入りませんけれども、酒の樽を作る人ですから、酒屋さんから融通が利く訳です。

で、当時の一級酒を持って、照国にそれを上げようと思って行ったところが早かったものですからね、自分がえらい酒好きなもので、ちょっとばかり良かろうというところでチビチビやりよったらとうとう一升仕舞えてしまった。とうとう照国のところまで行かなかったという話からです。自分は朝稽古ば見らせてもろうたが、その時旗崎の御井町というところから照国の弟子に入った人があったが、「もう大坪さん、あの稽古相撲というものは見ちゃおられん」とこう言う。

もうそれこそ叩いては倒し、突いては倒し、もう這いも立ちも出来んから、もうごそごそ逃げて土俵を降りようとするのをまた捕まえてふべ殴る。あれを親が見たら、とても相撲の弟子にはやられんだろうと言う。そんな話を私にしてくれるのです。

私はその話を聞かせて頂きながらね、これは神様が私に御理解下さっておると思いました。今、丁度、私のその時の姿が、もう土俵の上でへとへと、へとへとどころではない、もうごそごそ逃げ出そうかと。まあ今日も断りには行きよるけれども、どうして松枝さんの家に入って行けるだろうかと、その事ばかり頭にある時ですから、その話を聞かせて頂いておるうちにですね、これは天地の親神様がですね、これは「大坪総一郎、末は横綱に成り切らんでも、せめて大関まで位はと思し召しておられるからこそ、こういう厳しい修行もさせなさるのだなあ」と思うた。いわゆる、さっきも申しますように、そういう自覚が生き生きとして私の心の中に動いて来た訳です。

これは大坪総一郎でなければ出来ん、その為にはやはり力を受けなければならない。その為には人一倍鍛われるのは当たり前だと思うたら元気が出た。もうそれこそ勇気百倍でした。もう今までのへこたれた気持ちはなくなってしまって、それこそ意気揚々とした気持ちで借金の断りにまいりました。

もう、それっきりでした。

「もう大坪さん、来て頂かんで良か。いつかあんたが出来た時、ある時払いで良か。度々あんたも嘘を言いに久留米から福岡まで来るのもせからしかろうから、もうこれで来てもらわんで良かですよ」と言われました。

私は、おかげを受ける事もですね、そういう心の状態が必要と思うのですね。そういう難儀な修行の中にも生き生きとしたものが生まれる。しかもその根本になるものはです、いうならば私が牡丹の花、神様が私に戯れかゝってござる。可愛いからこそである。

小川さんの話を聞かせて頂いとるうちに、私の心の中に、今こそ私は土俵の上で突いたり押したり、それこそもう這いも立ちも出来んようになっとるのを、また引き起こして、さあもう一遍借金の断りに行けと言われておるんだと思った時にです、親なればこそ、神様なればこそという思いが確かに湧いて来た。生き生きとした心である。意気揚々と断りに行ったら、向こうの方でそういうようなおかげを頂いた。


禿山に鎌を持って

これはまあ余談ですけれども、その人は胸を悪くしておられましたので、私は春吉の教会に当時お導きしておりました。

それから何年か経ってからですが、福岡教会の大祭に信徒会長の秋永さんと一緒に御参りさせて頂いておりましたら、岡部先生が「大坪さん、あんた松枝さんところにはまだ払うとらんげなの」と言わっしゃる。

「まあ、払うとらんどこじゃなかですが」 「この頃から参って来てから、昔話が出てからの。あんたの話が出て『大坪さんは久留米の方でえらい発展しござるげなが』という話からあんたが借金しとる話を聞いたが、松枝さん宅へ一遍行きなさったがいいですよ。」 と春吉の先生から聞きましてね、それをそばで秋永さんが聞いておりましてね、二人で大橋までお金を取りに行って単車の後ろに乗ってまいりましたら、それこそもう珍客をもてなすように懐かしがって下さいました。

「よう訪ねて下さった。大坪さん、どうしてこの金をもらおうか。これはもうあなた方の神様に御供えして下さい」 どうしても取られませんでした。ですから仕方がないですから、それに替わるもので後でお返しさせて頂きました。

そういう訳でございましたけれども、まあそれはそれからもう七年も八年も経ってからの事でございました。この借金の事では松枝さんだけではありません。随分苦しみました。

福岡の平尾教会に、今は亡くなられ奥様が後を継がれておられますが、総代をされていた後藤先生というお医者さんがおられました。それは私が長浜町で、いわゆる畳も敷いてない四畳半のところで、修行で一生懸命になっている時分でした。後藤先生のお宅が丁度これからバス停留所まで位しか離れていないのです。福岡教会にその当時御参りになっとられました。そして帰りには私のところに必ず寄られるのです。それこそもう入口というたら、入口もないような家ですから、雨が降ったら下駄は家の中に入れんならんというところへ御参りになっておられました。いろいろ信心の話を聞いて帰られておられましたが、そういう時分でございましたもんですからね、もう背に腹は替えられず、ある時どうしても一万円の金がどうしても必要なのです。

もう借りるところもなければ捻出の方法がない。もうそれこそ恥を忍びましてね、後藤先生のところに相談にまいりました。北京から持って帰っておる一張羅の洋服を持ってです。それで洋服を「かた」において事情を話しましたら、もう二言も言わずに一万円貸して下さいました。

私はその時の事を思いますがね、その事を神様にお願いさして頂いておりましたら、丁度私が木が一本もない禿山に登って、鎌を持って薪を取りに行っておるという感じのところを頂いた。薪にしようにも一本の木がないというような状態なんです。あゝこれが現在の私の姿だなと思うた。禿山に鎌を持って登っておるような状態である。

私どもの方も三代前ぐらいまでは相当繁昌した家らしい。善導寺の教会の近所に馬田さんという大きな家がありますが、私どもの祖母が居ります時分は「この家に子供の時分はあるきに来よった」と言うておりました。私どもの先祖が住んでおった家であるというておりました。瓦一枚一枚にこの紋(梅鉢)が入っております。まあそういう時代もあったんですけれども、何というのですかね、善導寺に大きなお寺さんがありますけど、お寺さんに寄付の一つもしとらんですね。そしてどういう事かというと、夕食の時には三味線が入らなければ御飯は食べられんというぐらい贅沢しとるです。もうその時分の話を父から聞かせてもろうて、成程私達がこうして貧乏せんならん筈だなというような状態ですから、ここにはもと鬱蒼として木が繁っておった時代があったでしょうけれども、全部切り倒してしまった。そうしたところに植えようともしていなかったところに、何代目かの私は禿山に登らねばならぬという状態である。そういう時にです、今こそこの禿山にね、いよいよ喜びの苗を植えて回らねばならぬ時だといったような厳しい時代でした。


神ながら

これは私、もう自分の借金の事は随分ありますけれども、もう払うでも実に神ながらの事でした。

後藤先生の場合もそうでした。もうそれから何年も無音にしておった。もう本当に大坪という男はどうした男じゃろうかと随分何回も思いなさった事もあろうと思うけれども、一度も催促を受けた事はありませんでした。

先日も御本部の帰りにあちらの奥様とお会いしましてね、もうあの時分の事を懐かしがって大変その時分のよもやま話をしたことでございましたけれども、丁度吉野先生のところの記念祭の年に、今の御本部の隅田先生が金光様をお迎えになる場所がありますね、あそこのところでばったり先生と会うたんです。私は絶対御本部参拝の時には、お金を持って行かんのですけれども、神様からお許し頂いて丁度一万円持って行っとりました。だから元金だけではありますけれども、お会いしましたその場でお払いさせて頂きました。そしたら、後藤先生が仰った。

「もう、実は大坪さん、私はもう記念祭の時にどういう御用をさせて頂こうかと思うておる時に、これは大坪さん、おかげで御用が出来ます。」 後藤先生は大変喜んで下さいました。当時の一万円といえば相当な金額ですからね。というようにですね、借金を人間心を使わずに神様から払うて頂く。そして出来た時に払うという事になると、相手からそれを喜んでもらえる時期に払わせて頂けるようなおかげを受けられる、という事を体験させて頂いたですね。



素直心の一つにて・・・・・・

奇蹟つづく

ここで総代の御用を頂いている久富という人がおります。その久富さんの入信の時分の話をいっちょ聞いて頂きます。奥さんが神経痛リューマチで大変難渋しておられました。もう温泉という温泉、薬という薬、医者という医者、とにかく足が立たないのです。たまたまその方の従妹にあたる方の子供さんが腸捻転で手術をしなければならなくなった。それで「只今から手術に行かせてもらいます」というお届けにみえた。その時に私は丁度うどんを食べよった。神様にお願いさせて頂いて「このうどんを食べなさい」と。

腸がこげん捻じれとるとにこげなもんばと思ったけれども熱心な信者ですから、親先生があげん仰るのだからと、もう一生懸命の思いで食べさせたら通った、うどんが。それからすぐ病院にまいりました。そして、向こうではちゃんと手術の準備が出来ておったところが、うどんが通ったと聞いて「そんなら手術する事はいらんばい」ということになった。どうした事かというので、その医者に一部始終を物語った。

「そんなら私のところに御礼に来なさるだんじゃなか、早う金光様に御礼に行きなさい」というおかげを受けたのです。ですから、そういう奇跡的なおかげを受けたもんですから、従妹さんの嫁さんが神経痛リューマチで悩んでおられますので、毎日リヤカーに乗せてずうーっと約半里位のところから連れて御参りになっとられました。ところが、段々おかげで楽になってきて少しは歩けるようになり、もう十日目には大分歩かれるようにおかげを受けた。それはもう大変な喜びでしたね。あの時分ですよ、盲が目が開いた、ちんばが足が立った、というような奇跡が現れた。


「ガリ子」のおかげ

もう椛目のあの時分は何と言うでしょうか、門前市をなすというような時代です。ところが従妹さんが何時もリヤカーに乗せて御参りされますので、まあ人にばっかり頼んじゃ出来んというので御主人の久富繁雄さんが、

「今日は俺が自転車に乗せて行こう。そればって俺は神様には参ろうごとなかけんで、あの近所まで乗せて行こう」と。手前に勿体島というところがあります。そこまで乗せて行かれる約束で参られた。

「勿体島に着いたけ、こっからボチボチ歩く稽古をさして頂こうかね。」

「折角ここまで来たけんで、教会の前まで俺が連れて行こうたい。」

根が中々親切なお方ですから、教会の前まで連れてみえたのが運の尽きですたいね。

丁度その日はお月次祭でね、もう小さいお広前ですけれども庭が広かったので、皆立ってから拝むという時代でした。もう中にも外にも座っている人、立っている人でいっぱいでした。

私は説教台の前で話をしておる。久富さんはその一番後ろから一足踏み込んで拝んでおられた。あら、変わった人が来たが、どこの人じゃろうかと思うた。いわば何というですかね、目と目が合うた。心がその時すでに通うた。そしてその時私がお話をさせて頂いておったのが『天地の大恩』であった。

懇々と天地の大恩を聞かれてから驚かれた。これは病気、災難除けの神様のように思うとったけど、病気治しの神様じゃない、この神様は百姓がせなければならん神様だと感じられたという事ですね。それで、翌日からは御自分が先に立ってから御参りされるようになりました。まあ、それから様々な事があった。やはり神様に愛されておられる方は違うです。もう御参りを始めたら次々と難儀な事が起きて来た。さっきの話じゃないけれども、神様が戯れなさる訳ですね。そこのところに、それで信心の力を得て行かれた。まあその話をすると沢山ありますけれども、ある時、こういう話がございました。

豚を飼われるのです。そこで子豚を買われるので神様にお届けをさして頂いて、勿体島と津遊川というところで子豚を売るところがあるので、どちらに買いに行ったらよかろうかということになった。

そこで、私が勿体島の方が良かろうと申しました。そして息子さんが勿体島の方に買いに行ったところが、売り切れてしまって、「ガリ子」というですね、やせて小さいのが一匹残っておった。いくら神様が言いなさってもこれは買われんというて、そのまま津遊川まで行ったところが、そこには立派な豚が沢山もうよりどりで買われるというので、それでも親父があげん言うとるけんというので、まあ一遍家に帰ってお父さんにその事を話された。ところがお父さん曰くです、息子さんが国雄さんといいますが、

「それは国雄、勿体島のを買うのがほんなこつじゃろうね。」

「どげん言うたっちゃ、あげなガリ子のあげな豚ば買うて何になるの」

「それでもね、金光様の信心させて頂いておるとね、そういう神様の氏子にも等しい豚の子。この豚はとても信心のないところでは育たんぞ。親先生はそこを見てござったじゃろう。これは国雄、俺にだまされたと思うて、親先生が言われる勿体島の方からそのガリ子の豚を買うて来い」

ぶつぶつ言いながら親父がそういうものですから、買いに行ったところがです、向こうの方も助かった訳ですね。こげなとば買いに来たもんじゃから「これはもうお金はいらんばいの」という。安い値段でですね、分けてもらって来た。ところがそういうガリ子ですから、もうずうーっと病気のし通し、御神米の頂かせ通しに頂かせ、それこそ我が子のようにして可愛がられて、どうやら一人前になった。それは私は見た事はないけれども、神様ちゃ面白い。面白いと言うちゃ何ですが、やっぱり面白いですね。すぐ隣にその時分に、何とかいう横綱と同じ斤数の豚がおったです、種豚が。ところがその豚は大きいばっかりでいっちょん子を産まん。産んだっちゃ二匹か三匹か。ところがその小さい半分もなかごとある豚がですね、子を産むこっ、産むこっ。ばさらか。(笑声)子を産む為のそれですからね、多い時には十何匹と産む。

「見てみれ、親先生の云わっしゃる通りにしとけば間違いなかろうが」という事になった。

それはもう近所でたまがるぐらいに、その子供持ちの名豚になりました。その時分に私は、夜の御祈念を終わらせて頂いて、皆が帰った後で御祈念させてもらいよったら、神様が急に

『硯箱と紙の用意せよ』

と言われましてね。そしたら神様の下さるもの、何と言うのでしょうかね、あれはもう墨を付けさせてもらったら、さあーっと一気に障子紙一枚に書いて下さったのが

『何事も素直心の一つにて雲の上まで昇る道あり』

という詠を頂きました。『それを久富繁雄に下げよ』、と頂きましたから、下げさせて頂いたんですけどね。

例えばそういう豚一匹の事でもです、本当に自分の家族の一員のようにして可愛がって行かれると、その家の為に一生懸命に役に立った。豚が沢山になったから豚小屋建てんならんという事になった。お届けがあっとりました。そしたらそこはあまり自動車の入って来る道じゃないのに自動車が、どう間違いましたか、筑後川から砂利を上げた自動車が村の中に入って来て、村の道ですからひっくり返った。丁度久富さんところの前でひっくり返ってしまった。それで向こうは大変気の毒がってですね、

「済まんけどこの砂利を貰うて貰うところはなかじゃろうか」

「それなら私が貰いましょう」

丁度、豚小屋を建てるコンクリートにするとの砂利になるおかげを頂かれた。

それはですね、本当におかげというものは決してここで切断されるものでなくて、ずうっと繋がっとるものですよ。それを私どもの無信心で切る訳ですよ。

ある時、私方の家内がお鏡さんのかびの生えた屑がありました。豚になっと食べさせて下さいというてから、久富さんに上げた訳です。それで食べさせたところがですね、そのお鏡さんを食べてからコロッと死にました。本当に豚コロリですね。(笑声)本当にコロッと死んだ。もうその時、私は責任を感じましたですね。それこそお鏡一切れでですね、人の生命が助かるというのに。私は家内に申しました。

「豚になっとん食べさせてくれが、神様の気感に添わなかったじゃろ」、と。

それは洗えば人間、まだ食べられる。豚に頂かせてくれと言えば良かけれども、豚になっとと、もういらんもんのようにしてやったのが運のつき。そこでおかげは切れたようなもの、もう油断も隙も出来ませんでしね。

私どもが、あれはいらん、これはいらん、こういう問題は困る、と言うからそこでおかげが切れるようなものです。だから、そこんところを大事にさせて頂く事を、成行きを大事にするとか、最近では、御事柄を大切にさせてもらう、と言っております。それは「御」の字を付けさせてもらわねばならん程しに素晴らしい事なのです。神様の御働きなのです。それが神様の御心なのです。それをおろそかにしてはおかげにならんという事です。



成り行きを大切に

信心のための生活

私がそういう信心にならして頂いて、私は信者時代から小倉の桂先生の御伝記やら、福岡の吉木先生やら、久留米の石橋先生、または私の親教会の荒巻弓次郎先生の御修行時代のお話やら聞いておりましたら、とても金光教の先生ちゃ大した事じゃあると思うとりましたが、いよいよ自分が今までの信心から脱皮して、今までの、例えて言うならばおかげを追うてきた信心、ただ生活の為に信心があったという時代から、真っ裸で引き揚げて帰って来なければならない事になり、今までの信心ではいけない事を悟らせて頂いたところからです、百八十度の転換が出来てきました。信心の為の生活という事になってきた。

いわゆる生活だけではない。総てが、生活の総てが、いわゆる信心のためである。いわゆるその信心の根肥やしをさせて頂く事の為に、総てがあるという事が段々分かって来た。

初めからそう分かっておった訳ではないけれども、桂先生がなさったという修行の真似をさしてもらった。福岡の吉木先生がなさったという修行も真似させてもらった。久留米の石橋先生がなさったという修行もさせてもらった。もう、三井教会の初代である先生の箇条書きも。これは道の教師だからそういう修行せんならんというのではなくて、信者でもおかげを頂く為には、やはり修行せんならんと思うた。

ところが、おかげはますます頂かんようになった。右と願えば左、左と願えば右というような事になってきた。

ところが、不思議な事がその時分に起こり出しました。それは、事、神様事という時だけははっきりおかげになったという事であります。いわゆる、大祭なら大祭、御本部参拝なら御本部参拝が、そういう神様事になってくると必ずおかげ頂いた。


一にも神様、二にも神様、三にも

私はその頃福岡で、家内、子供を、余りに難儀が続きますから、椛目の方へ帰しました。それで、私一人であちらへ残って修行させてもらった。もちろん御神意のままの修行でございました。

秋の御大祭、丁度御大祭前に、二、三日前から御用にまいります。それで、今日はその日に当たりますから帰らなければならん。

家内から葉書が来ておった。

こちらでこうやって家族中、親子三人がたとえ親の家であっても、食糧も不自由な時ですから、そちらで配給が取られるなら少しでも持って帰ってくれという事であった。

それで無理算段を致しまして、当時は黒いようなメリケン粉ですよね。そのメリケン粉一俵買わせて頂いて、それを持って善導寺に向かって帰ってまいりました。丁度西鉄の昔の改札口のところにずうっと並んで待っておりました。私は足元にメリケン粉の袋を置いてしみじみ感じた。

今度の大祭には、おかげ頂いて祭典費の方はおかげ頂いたけど、この大祭に、それこそ年に一回しかないという大祭に、お供えも出来ん事は本当に淋しい事だなあと思った。思うたら途端にですね、足元にあるメリケン粉を神様は指を差すように示しなさるものですから、私は「はっ」と思うてね、お供えはここにあったたいと思うたです。これは家内、子供が食べるために持って帰りよるところですから、これをお供えとか全然気付かなかった。けれども、ここにあるじゃないかと神様は云わんばっかりに示しなさるから、あゝ今度の秋の御大祭にはこれを以てお供えさせて頂こうと腹が決まった。

そしたら有難うなってから、それこそ目を閉じておるとおかしいぐらいなみだがこぼれる。そういう中にね、心眼を下さった。ちょうど鶏ですね、雌鶏が首を羽根のところへこう突っ込んで、いわゆる思案投げ首といったような感じ。二、三羽の雛がばたばたと餌がつれして倒れて行くところを頂いた。そして私の心の中に、家では家内がメリケン粉を首を長くして待っとるぞと。子供達はそうなったらばたばたと倒れてもよいかという感じであった。

私はそれに答えた。「神様、日頃御教えを頂いておりますと、私どもの生命は神様が預かっておって下さるのであり、神様のおかげを頂かねば立ち行かんのであり、この大祭というのは私にとって年に一度の大祭でありますから、この大祭にお供えも出来んと思うておるところにお気付けを頂いて、あゝここにあったと分かった以上、それはお供えさせて頂かなければおられません。どうぞ、家内の事は、子供の事はどうぞ宜しくお願いします」という事を。そこでとっさに御祈念させて頂きました。

そしたらすぐ、ずーっと私の目の前にね、海のような大きな湖にですね、小さい水鳥が五、六羽こう泳いで餌を探しておるけれども餌がないような状態で、向こうへずうっとばらばらで泳いで行くところを頂いた。そのずっと後から、その十倍もあろうかと思われる水鳥がね、口に何やらをくわえて、矢を射るような勢いでね、その小さい水鳥の後を追うて行くところを頂いた。

本当に神様はね、こういうおかげを下さる。

大祭を終えて、後片付けも終わってから、福岡に帰らして頂きましたら、家の前に自転車がメリケン粉一俵積んで立っとる。そしたら、私が闇商売さして頂いとった時分に中国人との商売があって、私が闇で引っ掛かった時にその人の分まで引っ被って、いろいろまあ、私が犠牲になっておったんですね。それを、半年ぶりぐらいでしょうかね、その人が御礼にと言うて、あの当時、あの人達第三国人の頂くメリケン粉というのは、進駐軍のとですから、真白いメリケン粉でしょう。そのメリケン粉を一俵御礼に持って来ておるところでした。

なるほど、私が御心眼に頂いた、大きな水鳥が後を矢を射るような勢いで追うて行ったのは、この事じゃなかろうかと思わして頂くような事がありました。


すべてを受けぬく

様々な、いわば表行、これが心行と思われるいろいろな修行をさせて頂きましたけれども、思うようには一つもなるどころか、返って反対になってまいりましたから、こういう事を思い立ちました。

親先生の御取次を頂いて、これから先私の上に起きて来る一切の事柄、これをそれがどういう事であろうとも、これを受け抜かせて頂くという事を、御取次を願いました。それが今合楽で言っておる「御事柄」というような大変な事になろうとは、夢知らなかった。ただ、あの修行もした、この修行もしたけれども、どの修行しても成就という事にならなかったところから、そういう修行に入らせて頂いた。

その頃から椛目に帰る事になりまして、椛目で本当に門外不出でございました。親教会にも御無礼を致しました。

もう座り切り、もうそれこそ朝の五時から晩の十時まで引っ切り無しお話のし続けでございました。お弁当持って皆が参って来る、というようなおかげになってまいりました。

ところが、今も申しますように、どのような事にも受けて立とうというのですから、それは今から考えますと、もう大変な事でした。

金を貰いに来る人がある。貸してくれというて来る人がある。もう都度都度に私はお賽銭箱を引っ繰り返して上げたり、貸したりしました。今にまだ一銭でも返ったのはありません。

もうそれこそ、親も見捨てておるような病人が導かれて親子でやってまいりました。そしてその十二才になる子でしたが、小児結核でした。が、十二才にもなるのにこうして抱ける位でした。それを二、三日は一緒に居りました。けれども、何処かに出て行ったきり親は帰って来ませんでした。段々おかげは頂きましたけれども、父親が帰って来ませんから、毎日寂しがっておりましたが、それから一ヶ月位後に亡くなった。ですからあの当時、私の方の隣は柿畑でしたが、「椛目の金光様には幽霊の出るげな」という評判でした。

その頃は本当に、医者では助からんというような病人が、常時十人ぐらい居りました。もうおっせ、かっせ。ああいう中に皆がどうして参って来たろうかと思うです。気色の悪うしてこたえん。もうそれこそ近所からいろんな苦情が出ましたです。

横に小川がありましてね、毎朝起きてからそこに顔を洗いに行く訳です。だから近所から文句が出る筈ですよ。投書が行って警察から調べに来る。また、警察に呼ばれる、検事局に呼ばれる。まあ、その時分はいろんな事がございました。

その中にですね、もう今から考えてみますと、もう本当にどげな事でも受けようという気になっとりましたので受けられましたが、あれに家族の者がよう文句も言わずについて来てくれたと思います。もう受けて受け抜いたですよ。

くれという者にはやる。貸せという者には貸す。世話をしてくれという者には本気で世話をさして頂く。盲のお婆さんが来ておりました。もうその盲のお婆さんの為に、家内はもう掛かっとりました。そういう事がちょうど四年半続きました。

そういうある日にですね、三十才ぐらいの若い青年を導いて来ました。預かってくれと言う訳です。よく見ると、東千代之助のような顔しとる良か男です。ところが話を聞いてみるとですね、この人が色気違いです。女を見れば、若くても年寄りでも良かというふうです。それを後ろから家内が聞いとりましたけんね、「先生、先生、今あなたが引き受けよんなさったが、大丈夫ですか。ここにこがしこ女の方達が参ってみえるのに、もしもの事があったらどうするですか」と言うて、家内が申しました。これだけは家内が申しましたです。他の事ならそれこそ、家内は一口も申しませんでついて来ましたがね。「神様にお願いしてこの人もおかげ頂かんならんとじゃから、良か、良か」で置きましたけれども、その人は夕方までおりましたが、行方不明になりました。やはり神様の最後の御ためしだったでしょうね。


御ためし終る

それが四年半目でした。そして四年半目のその当時の椛目の五年祭ですね。あと半年を控えた春の大祭に私が御知らせを頂いたのが、今まで、例えば何もかにも黙って頂く、黙って受けて行くという修行をしたけれども、これからはこういう修行になれというて、御心眼にホーレン草を頂いた。

ホーレン草というとマンガでやるですね。ポパイがホーレン草を食べると元気が出ると言うやつですよ。それをですね、私はそのホーレン草を引っこ抜いて、まだ土がちっとだん付いとる、ヒゲも付いとる、赤い枯葉も付いとる、それをそのまま頂いて来たというのです。もう一切合切を頂いて来たというのです。ですから神様はこれからはね、そのホーレン草の根も取れ、ヒゲもむしっていけ、枯葉があるならもちろん、きれいに洗い上げて食するようにという意味の事を頂きました。

それ以来、私の方では病人を預かる事はしませんでしたけれども、また訪ねて来る者もございませんでした。如何に四年半というのが神様の御試しであったか、神様の私に対する戯れであったかと思います。

「これでもか、これでもか」という四年半であった。けれども、一つも「これでもか」と感じなかったです。実際、だから有難さいっぱいでいくのですからね。それこそ、叩かれたっちゃ神様なればこそ、というような気持ちで受けてまいりますからね。けれどもそれは「あまりもの信心じゃ」という事になったのではないでしょうか。四年半目からは、ただ正常に本気で修行したいという人が修行生として入って来た。

もちろんお金を貸せという人もなくなった。与える人も、もちろんなくなった。


「私の辞書には難儀は無い」

そういうおかげを頂かせて頂いて行くうちに、私が成行きを尊ぶという事が如何に素晴らしい事かと感じるようになりました。四年半過ぎてから、それまではただそれを一生懸命受けて行くという事でしたけど、そしてその成行きそのものがです、神様の御働きである事が分からせて頂きました。今までは神様を大事にする、尊ぶというけれども、その尊ぶとか、神様を大事にするというても、神様の御働きそのものを御粗末にするような事では、神様を半分は大事にしとるけれども、半分御粗末にしている事になる、という考えがつくようになった。そして初めてです、真の信心とは、という事になりました。

吉井の教会の御信者さんで、千足で薬局をなさってた方がありました。何とか言いましたね、元気なお婆さんでした。あそこに一晩お話に来てくれというので、その当時、あちらにまいりました事がありました。古賀さんです。古賀さんのお宅でした。一晩泊まりで、翌日食事をしてお茶を頂きよる時に「大坪先生、これは私の宝でございます」というてね、金光様からお書き下げ頂いた白扇を見せて頂いた。それはもう、白扇の真ん中に小さい小さい、これより小さく書かれまいという字で『真の信心』と書いてあった。

それで、私はそれを、白扇を開かせて頂いてね、「真の信心とはどういう事だろうか」と思うた。そしたら、三代金光様の御声でですね、「真の信心とは安心のおかげを受ける事であります」と頂いた。

そして例えば、私が通らせて頂いた四年半であります。もう神様の御働きなら御働き、成行きを尊ぶとか、大事にするとか、という四年半が続き、終わってもうこの生き方で行けば間違いがない。どういう難儀な問題でありましても、それは昨日も申しますように、怖い問題も嫌いな問題もあるけれども、怖いと思うておったのは自分の心に元気を下さる神様の御計らいであった、邪魔と思っていたのは心を研く砥石であった、総てが御神愛の現れであるという事を分からせていただいた。

それが、体験させて頂きよるうちにです、もう私の前には困ったとか、恐ろしいとかいうものはないという事になった。

いうならば『私の辞書からは難儀というのはなくしてもよい』という程しのものを最近感じます。

難儀はないのだと、難儀に見えておるのは迷いだと。信心が分からん、神様が分からんからだと。そこに生まれて来るのが安らぎであり、安心であります。


平和奈心

昨日お話しかかって忘れておりましたが、この頃から佐藤宿老の曽孫にあたる佐藤博夫(広島教会)という修行生の方が、丁度二十日間、夏休みにここに修行に来とりました。その方が三日目に御神前でね、昼の御祈念中に頂いたというのが、丁度神様の方から御霊前にかけて大きな字で『平和奈心』と頂いた。

その平和な心というのが、「平」というのが一、八、十。「和」という字はいくら金槌で叩いたって崩れまいというような頑丈な感じですね。「和」という字を楷書で頂いた。「奈」というのは奈良の奈でこわしてある。これは「大きく示す」とタイトルがつけてある。「心」という字もまた八という字を頂いて、こちらの「〃」(心の字の半分)もまた八の字で書いてあるという心であった。

もう初めて神様の前でそういう事を頂いたので、自分の目を疑う訳です。けれども間違いのない書体まで私の前に持って来て、こういう書体で頂いたと示すのです。

私どもの心の中にです、本当に「和らぎ賀ぶ心」というか、「安らぎの心」というものがです、頂けて来るおかげを頂かして頂いたら、一、八、十と一から八に広がって行く。十はプラスである。それにプラスしていくものであります。大きなおかげを示して下さる。奈良の奈は大きく示すとある。心という字はもう八の字ばっかりで書いたという心である。八の字はどこまでも八。八つ波の八にも当たりましょう。末広の意味にも当たりましょう。

そういうおかげがおかげを生んだ。おかげの花が咲いて実が実って行くというようなおかげを頂く為に、この和の心というものが、叩かれても崩れない程しの心を和の心というのぞという御理解を頂いておる。


世界の名教へ

そういうおかげを頂かせて頂く為にです、神様の御働きそのものを大事にしなくてはなりません。もちろん御物を大事にさせて頂く事はいうまでもないですけれども、これはね、私が最近いろいろ思わして頂くのですけれども、食物訓なんかね、このように普遍性に富んだ御教えはないと思うんですよ。

『食物は皆人の命の為に天地乃神の造り与え給ふものぞ』、『何を食うにも飲むにも有難く頂く心を忘れなよ』という食物訓ですけどもね、これを例えば、私がおりました中国なら、いわば北京辺りで金光様の信心するなら、支那人は誰もしませんよ。もう、食べ散らさして粗末にする事がですね、大人だと言われておるのですから。例えばアメリカの人達がレストランに行ってです、お皿でも何でもねぶらにゃ罰かぶるよというたら、どういう事になるでしょうか。絶対アメリカ人は信心しませんです。

だからそういう事をせよ、というあれは御教えじゃないです。命のために造り与えられたものであるから、命のためにこそは頂かなければいけないけれども、だからもうこれを食べ過ぎたらいかんと思うたら捨てたらよい。これは飲み過ぎると思うたら、体を害するよりも捨てたがましです。それをお粗末になるからと食べて、後で腹が痛むという事になって来る。本当ですよ。そんな人があります。

『かすって食べる心は汚ない心』と仰る。私どもは、かすって食べるのは有難い事のように頂いて来た、今までは。

それかというて、これは私はまだ少年時代から続けておる事は、どこを歩いとっても穀物が落ちとったら、拾ってから食べぬならポケットに入れるという事は、子供の時から実行して来ております。

皆さん、ここへ来てから、手洗いの水がどこもかしこも出っ放しですがね、お口をすすぐだけじゃない、心をすがしてもらうのに、これは汚なかちゅうてから使ったら心まで汚す。もう限りなく無尽蔵に下さるものは有難く頂かねば嘘だ。

いわゆる生命の為に頂くように、心の為に頂くのだという生き方ならです、これは世界中どこへ行っても通用すると思うです。

食物は命の為に与えられとるのだぞ。命の為に頂かにゃいけんぞ。それを命の為に御無礼する事なら分かる。けど、これを食べなければ、これを粗末にしたら罰かぶるという事では、これは日本人の金光様だけなら通用するか知らんけど、外国には通用せんです。今時レストランあたりに行って御覧なさいませ。もうほんな事、勿体ないごとしとる。あげんとは皆罰かぶらにゃならん、というようでは世界の名教にはなれません。といって、私はやっぱり、それこそお茶の点前をするように、ゆすいで頂きます。段々分かってくれば、実をいうたらそうせねばおられんのです。

これは、甘木の初代が身を以て残しておられる。私どもは、お水もそうだけれども、お風呂に入る時には、今でも湯桶半分しか使いません。湯桶半分というが、湯桶半分で上がるというのではないですよ。湯桶に汲む。がばっと一杯汲まずに、心して半分しか使わんというのです。使うのはもう、私は汗掻きですからね、もう沢山お水を使わねば出来ません。それは水の御恩徳という事は、私ども引き揚げて帰って来る時に、もう配給の水ですからね、もうおかわにまで水を貰いました。

もうそれこそ水の有難さは真から分かっとります。分かれば分かる程、だから有難く頂かねばなりません。けれどもね、例えば、ああして滾々として湧くようにする事は勿体ないという考え方は、もう私は現代の社会に布教する金光教ではないじゃないかと。これはあくまで私の生き方です。


神願成就も

神様の思いが分かる、神様の願いが分かる。そこから血の涙の出るような歯痒い事がありがた涙に変えられるというところに、信心があると私は思うのです。

私どもの上に、一人一人の上に誰彼の願いが成就するのではなくて、神様の願いが成就すると言うこと。

神様の願いが成就の中に、私どもの願いが成就していく。そういうことでなければあいよかけよで立ち行くという事ではないと思う。『親の事は子が頼み、子の事は親が頼み』と教えられる事にはならないと思う。

ただ願う事だけ願うて、神様の願いをちょぼっと程しか聞かんなら、そんなものはほんなものじゃなか。ちっとばかりお供えすれば神の御用に立っとるような思い方は間違い。本当に神様の心を知る、神様の心を分からしてもらう。

神の願いがこのようにして私の上に成就しておるという事がです、場合には血の涙の出る事もありゃ、恥ずかしい思い、損な思いをする事もあるけれども、それが神の願いが成就しておる事であるならば、それを有難く頂かなければ相済まんという事になるのでございます。




「第四章」 終わり


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制作責任: 中原 博信 E-mail: hiro@wagakokoronet.org