和 賀 心 時 代 を 創 る

(この章は去る昭和四十七年八月十四日筑水地区青年信徒研修会において「和賀心時代を創る」という講題のもとに御講演を頂いたものをそのまま集録させて頂きました。)



第五章 現 代


和賀心時代を創る

金光教の助かり

私どもが真実助かっていくという事、これはもちろんおかげを頂かねばなりませんけれども、そのおかげを頂くという事の内容が、天地書附に、

『生神金光大神、天地金乃神、一心に願、おかげハ和賀心にあり』

と教えられるように、その和賀心にあるところのおかげを以て、私は金光教の信心のおかげだと思うのです。

 いろいろな信心がございます。同じお道の中にありましても、やはり同じ金光大神の道を頂きながらも、一つの流儀とでも申しましょうか、例えば久留米流があったり、甘木流があったり、又合楽流があったり致します。それはあってもいいと思いますし、またなからなければなりません。

 金光大神の教えられる道は大きいのですから、「こうでなければならん」とか「ああでなければならん」といったような事はないと私は思う。

 先日、ある教会の先生のお話を頂いたんですが、その中にある教会の話が出てました。沢山の人がやっぱり助かっておる。それはどういうような事で助かっておるかと言うと、ほとんど病人さんが多い。そこの親先生という方が、病人が参って来ますと「どこが悪いか」と聞かれて、そこの悪いところを指圧のような事をなされる。まあ、おさすりと言うてよいかもしれません。

 ところが、それで不思議に人が助かる。ですから大祭ともなりますと、沢山の人が集まるという事です。

 これはまた別ですが、そこでは御霊様専門。「何代前の御霊が助かっていない。御霊様のお祭りをすると助かる」言われた通りにすれば、商売も繁昌して来るし、病気も治って来る。かというと、祈念力で人を助けなさる先生もおられる。

 いわゆる拝む、祈念力によって助かる。まあ様々な助かり方がある訳です。だから金光教の教祖の教えられた信心の中にはそういうものはないという事ではない。やはりどういうようなものでもある。まあ言うならお稲荷さん的な事で助かっておるというのもある。ただお伺い所といったようなところもある。

 けれども折角助からせて頂くならば、いわゆる和賀心を以て助かる。和賀心によって助かる、ハッキリと教祖が仰っておられます。『今月今日只今を、和賀心にならして頂く事を願え、その和賀心におかげがあるのだ』と。

 ところが、なかなか和賀心になれない、難しい。けれどもその和の心、賀の心を目指させて頂いてお互いが信心の稽古をさせて頂く。そこにそういう姿勢をさせて頂くところから、もう既に助かるというか、こうなってしまわなければ助からんという事ではない。

 ここに『和賀心時代を創る』と講題を掲げてありますが、これは今年の合楽の信心の焦点とも言うべきもの、いや今年だけではない、合楽のある限りこの事は願われ続けられる事だろうと思います。また合楽だけではない、金光教の全体の人達が焦点にしなければならないところだと、そういうようにも私は確信させて頂く。

 それにはやはり、先ず私どもが、和賀心というものがどういうような働きをするものかという体験、和賀心になるという事がこのようなおかげになるという事を示さなければ、如何に『和賀心時代を創ろう』と言うても誰もついては来ません。

 まず私の心の中に、まず私の一家から、そして私の周辺に・・・・・・・

 そういう和賀心時代を創るというささやかな運動が興されるとするならば、きっと和賀心時代は顕現されると確信します。それは五百年後、千年後かも知れんが、きっと来ます。

 そこに至らなければ人類の真の平和、幸福には繋がらないという事です。

 和賀心にはそれ程しの力があり、真理があります。

 この複雑極まりない現代の世相を見る時、それを痛感せずにおれませんね。毎日あの新聞を見てどう思いますか。世界のどこかでは毎日戦争があってるし、交通戦争の犠牲で毎日何人もの人が死んでるし、それに公害、暴力、非行等々・・・・、挙げて申しますなら限りがないですね。

 誰もが世界の平和、人類の幸福を望んでいる訳ですが、どうしてこのような事になってきたのでしょうか。

 「政治が悪いのだ」といって革命を起こし、血を流し、多くの人命までも奪って来ましたけれど、結局平和にはなれなかった。また、物質に満たされれば幸福になれると思った人間はいろんな物質を発明もしてきた、発見もしてきた。

 けれども皆さんどうでしょうか、幸福になれたでしょうか。

 むしろ私達が得たものといったら、自分さえよかればよいという心、人を恨む心、憎む心他人を信頼出来ない心です。今の言葉で申しますなら、人間不信、断絶、生存競争、公害、民族的偏見、そして戦争という事です。いわゆるこれを私は、物質文明の産み出した「奇形児」だと申しております。

 なぜこのような事になって来たのでしょうか。

 言うまでもなく「心」を忘れていたからであります。心を大事にしてこなかったからであります。

 私達は「パンのみでは生きられぬ」という事は知ってはおります。けれども、ただ知っておるだけでそれを大事にしようとはしてこなかった。その人類の悲劇がです、今日の世の実相という訳です。

 より多くのパンを得る為に、人間は努力してまいりました。より美味しいパンを手に入れる為に研究もしてまいりました。

 そして多くのパンと美味しいパンを手に入れる事が出来ました。ところがどうでしょう、その結果、先程も申しますような幾多の抜き差しならぬ問題も一緒に作り出してしまった訳です。

 このまま行ったらそれこそ人類は、人類の手で人類を破滅の道へ追いやってしまいます。今からでも遅くはない、一人でも二人でも人間が破滅への道へ暴走しておるのに歯止めする人が要ります。それは、これからの世代を背負って立つ若い皆さん方の使命でもあろうかと思います。

 本気でその事に気付き、目を覚まして頂きたいものと思います。パンを得る為にあれ程しの人材、財、そして時間を費やして研究してきたのですから、ここで「如何にしたら人間の心が美しくなれるか、豊かな心になれるか、いうならば如何にしたら和賀心になれるか」を国家総掛かりで、人類総掛かりで努力すべきだと思いますね。

 国家がですね、如何にしたら産業が発達、繁栄するかを大変な財と時間と人材をかけて努力研究するようにですね、如何にしたら人間の心がより豊かに、より美しくなるかを努力研究するような時代が来なければ世界真の平和はあり得ないし、人類の幸福にへはつながって来ないと思いますね。

 私はね、決して物質に恵まれる事をいかんというのじゃないですよ。それも必要です。それは人間がより豊かな幸福になれる条件ですからね。私が言うのは、多くのパン、美味しいパンも必要だけれども、それと同時に心の発達もして行かねばならないという事です。

 公害問題なんかもそうです。いくら「美しい空を、きれいな水を」といって、それを取り戻してもですね、私達の心の中により美しい、きれいな心を育てる努力をしない限り解決する問題ではありませんね。

 学生さんの運動なんかも「政治の貧困だ」「闘争だ」「今こそ銃を取って戦うべきだ」と言いますがね、血を流して、銃を取って戦ったら、世界の平和が、人類の幸福が来るのであれば、それもいいでしょうが、けれどそれでは決して真の平和、真の幸福はありえません。それは過去の歴史が物語っています。

 自分さえ良かれば他人はどうなってもいい、自分の家族の者さえよければ・・・・という心、人を恨む心、憎む心、妬む心・・・・等これらの心をなくす事に努力しない限り人類の平和、幸福はあり得ないと思いますね。

 その事を人類総掛かりで、また宗教家自体が宗旨、宗派を越えた努力というものがなされなければならぬ時だと思います。

 それにはまず、私の心の中に、そして今日お出での皆さんの中に「和賀心」を頂かねばなりません。そしてこの和賀心の素晴らしさが分かったら、その運動員としてあなた方の周辺に和賀心運動を推し進めて行ってもらいたいものです。

 それも説明や理屈だけでなく、私はこうおかげを頂いているという事実を引っ提げてのものでなければなりません。

 金光教でいう和賀心は精神修養的な心ではありません。『天地書附』にもハッキリ申されてあるように『おかげは和賀心にあり』であります。和賀心になりさえすれば、頼まんでも願わんでも黙っておかげはついてくるものです。おかげの伴わない宗教は死んだ宗教といってよい。本気で取り組めば、取り組んだだけのおかげです。

 私も永い間お道の信心をしてまいりました。ずいぶん教えも頂いてまいりました。けれども教えに本気で取り組んだという事がなかった。

 私は大体が商売人ですから、商売人としていろいろおかげを頂いてまいりました。例えば商売をするなら、売場、買い場を大事にする事を教えられた。また、人が十銭で売るものは八銭で売るというような事も教えられる。それの方が数が沢山売れるから得だと教えておられるのにも拘らず、これは私の信心ですけれども、十銭のものは十一銭で売る事がおかげのように思うてやってきた。それでもやっぱり何十年間おかげを頂いて来たという事実がある。本当に沢山の御教えを頂きながら教えを行ずるという事をしなかった。一生懸命拝むという事はした。また、御用を頂くというような事もした。けれども本気でその教えに取り組んでその教えを血肉にしていこうとする信心を一つもしなかった。そして私の信心の岐路というか境になったのは終戦であった。

 裸同様で引き揚げて帰ってまいりまして、そこから今までの信心ではいけなかったと初めて眼が開け出した。それから続けざまに兄弟三人の葬式をしなければならないといったような事が起きてまいりますに従って、私の信心の眼が開いて来たという事になったように思えます。そして本気で教えを頂こう、また、そしてそれを行の上に現わさせて頂こうという事になってきたら、私が助かるという事ではなくて、私の周りの人までが助かるようになってきた。

 皆さんの場合はどうでしょうか。本気で信心するという事は、本気で教えに取り組むという事だと、私は思うのです。しかも最近私は、あの沢山の『御教え』がありますけれども、その教えの全てが私どもが和賀心にならせて頂く為のそれだ、教えだという風に頂いてよいと思うようになりました。そしてその『和賀心』の素晴らしさと申しますか、これなら世界の市場のどこに出しても恥じる事のないものだと確信する今日であります。

 ここに至りますまでの過程を今日は聞いて頂こうと思います。

 終戦になりまして北京から引き揚げてまいりましてから、福岡の方で商売をさせて頂いた。もうそれこそ置いたものを取るようなおかげを頂きました。けれどもそれは束の間であった。今度はそれと反対に、右と願えば左、左と願えば右という事になって来ました。

 先覚の先生方がなさったという様々の修行もやってみた。しかし難儀は私の身の上にばかり起きて来た。けれどもその頃は少しは信心の有難さが分かってきておった。

 そこで親先生にお取次を頂いた。「親先生、どうぞこれからは、右になりますように左になりますようにというお願いはもう止めました。私のような者でも、天地の親神様の願いというものが掛けられておるに違いないと思いますので、神様が私に掛けられておられる願いが成就する為ならば、右になろうが左になろうが一切不平は申しません。不足に思いません。私の上にどのような事が起きてまいりましても受けさせて頂きます。ですから、これからは神様の願いが成就されますようお願いして下さい」、というお取次を頂いた。

 それから私の信心が一変してきたように思います。それからいろんな事が起こってまいりました。椛目で私の話を聞きたいという人が段々集まって来るようになり、しかも話を聞いて下さる方々がどんどん助かるようになって来ました。それはもう大変な時代でした。

 例えて申しますと、初めて参って来て「お金を貸してくれ」と言うたり、「お金を下さい」と言う人があったり・・・・・・。

 私はそんな時、お賽銭箱を引っ繰り返してあげました。また、貸しました。けれども返って来たためしは一遍もございませんでした。それは金銭だけの事ではありません。あの時分には、もう棒にも箸にもかからんといったような病人やら、妙な精神異常者のごたるとやらが十何人といました。「お願いします」と言うてて来たのは、どんな人でも受けさせて頂いた。また、私の上に起こってまいりました事は、どんな事でも受けさせて頂いた。

 今から考えてみますと、はまっておるという事は素晴らしい事です。あれが、しるしいしるしい、どうしてこんな人を面倒見なければなんらんだろうか、というような気持ちだったら、とても出来なかったんですけれども、もうとにかく神様が私に下さるものならば、良しにつけ悪しきにつけ、もうそれこそ夏も御小袖で頂こうという気になっとりますから、本当に、それは見事に受けて行った事になります。それも私は、どういう事になるのか分からんなりにそうやって受けて行った。

 そういう事が四年半続きました。丁度四年半目に神様からお知らせを頂きました。神様からほうれん草を頂きました。あのポパイが頂くやつです。あれを食べると力ができるというやつです。確かにそうです。そういう意味の事も含まれておったんだと思います。

 そのほうれん草を、畑から引き抜いて来たばっかりのを、まあだ泥も少しは付いとれば、ひげも付いとる、赤い葉もまだ付いとるというような情景を頂いた。

 そして神様が御理解下さるのにね、今までここ四年半は、このほうれん草のひげも取らず泥が付いてじゃきじゃきするようなのでも、また赤い葉でもみんな頂いて来たようなものであった。

 しかし「それはあんまりの事であるから、これからはひげもむしれ、泥も落とせ、しかも赤い葉は取ってしまえ。そして滋養になるところだけを頂け」というようなお知らせを頂いた。それが四年半目でした。

 ところがもうそれっきりでした。当時の椛目にお金を借りに来る人もいなければ、貰いに来る人もなくなりました。もちろん病人さんを預かってくれといったようなのも全然ありません。ただ入って来るのは、本当に信心修行がしたいと言うて来るひとばっかりでございました。今考えて見ますと、その四年半という時代はお試しの時代であったなと思うのです。

 その頃から当時の椛目では、成り行きを尊ばせて頂くという事を言い出した。私の上に起て来る成り行きそのものを大事にせよと言うておりました。

 しかしそれがまだ真の信心とは私自身も気が付いてなかった。段々おかげを頂いてまいりました今日、それが神の機感に適った信心であったのかと気付かせて頂いております。

 まあ、様々な問題も沢山ありましたけれども、その問題の総てがおかげでございました。

 そしてね、これは最近分からせて頂いた事なんです。私どもは神様を拝むと言うて、いわゆる棚の上やら八足の上にお祭りしてある神様だけは畏み畏んで頂きもすりゃ拝みもしますけれども、神様の働きそのものを大事にしていないとするならば、それはもう神様を半分おろそかにしているという事。

 いかに神様を有難そうに拝んでも、神様の働きそのものを粗末にしたならば、もう神様をお粗末にしているという事になるのじゃないでしょうか。

 先ほどから申しますように、これは大坪総一郎だけではない、人間氏子の一人一人の上に神様の願いというものが掛けられてある筈なのです。それを気付くか気付かないかという事が信心。気付かせて頂くところから、その神の願いに応えようという信心が生まれて来る。また、いよいよ神の心の奥が分かりたいという求道心もまた、生まれて来る。

 私の上に起きて来る一切の事柄を有難く受けさせて頂くという姿勢。だから私の前には問題がない。「問題の性質をよく見て」といった事を言われますけれども、私にはね、もう見るも見ないもないのである。

その問題を通して、問題のおかげで私の信心を育てて下さる。言うなら信心の糧なのだから一つも問題じゃない。

 そこに至ります時に、問題のない社会、問題のない生活が出来るようになるのです。

 そこでです、お互い一人一人の上にも、起きて来る様々な問題、その一つ一つが神様があなたに願われる修行であるという頂き方、それが成行きを大事にするという事でございます。

 最近では、その事がいよいよ確かにそうだな、「真の信心、真の信心」と言うけれども、真の信心とは神様をいよいよ尊ばせて頂くという事、大事にさせて頂くという事、それは只お祭りをしておる神様だけを大事にするのでなくて、神様のお働きそのものを大事にするという事が真の信心だという風に、これは私は確信を持ってそれを云えれるように最近は感ずるのです。

 教祖様は『天地日月の心になる事肝要なり』と仰るのですから、やっぱり天地日月の心にならして頂く精進を本気でしなければなりません。

 これはまあ私なりの解釈ですけれども、天の心というのはもう限りない美しい心、限りなく与えて与えて止まない心、これが天の心だと私は思う。

 地の心というのは黙って一切を受けるという事。いわゆる黙する事大地の如くであります。大地は如何なる汚ないものを持って行っても「こんな臭いものはいやだ、こんな汚ないものは駄目だ」とは申しません。言わないばかりかそれを自分の滋養として行きます。そのような心、これが地の心であります。

 しかも日月の心。これは言うならこれ程実意丁寧なものはない。お天道様が「今日は一寸きついから休もうか」なんて言われたら大変ですよね。一年三百六十五日、それこそ休む事なく一分一秒の間違いもなく運行下されております。

 実意丁寧という事は日月の如く。言うならば正確無比この上にないもの、これが日月の心であります。

 『天地日月の心になる事肝要なり』と教えられているのですから、やはり『肝要』と受けさせて頂かねばなりません。

 そして、その成り行きを大切にするという内容、中身が天地日月の心とも分からず、ただ取り組んで来た事がそのまま「はゝあ、これが天地日月の心であったのか」と、今分からせて頂いております。

 そして最近、またここで新たな言葉を以て言っておる事は、言うなら「御事柄」という事であります。総ての事の中に「御」の字を付けようというのです。損になる問題であってもそれを御事柄として頂く、神様が私に下さるものとして頂くという事、これは素晴らしい事になって来ております。

 初めの間は、訳はわからんなりに、ただ私の上にかけられた神様の願いが成就していくことのためならば、私の上に起きてくる一切の事柄を修行として受けて行きます。というようにただ、修行というつもりで受けておったことが、今になってみるとこれは大変なことであった、修行どころか有難う受けねば、ばからしいと言うようなことになって来ております。

 例えば、性欲なども性欲としてそれを理解しようとすれば、なんとなくうしろめたいと言うか穢らわしいものになるのですけれども、これを「御性欲」と頂く時、その穢れは祓われてまいります。

 初めの間は訳は分からんなりに、ただ私の上に起きて来る一切の事柄を修行として受けますと。私の上に掛けられた願いが成就していく事の為ならば、それを黙って受けますという。ただ修行という積りで受けておった事が後で振り返ってみて、ははあ、あれが天地日月の心なって来たのだな、肝要だと仰るところを私は曲がりなりにも頂いて来たという事になるのです。

 そしてその事がです、もう神様のお働きと分からせて頂いたならば、もう事柄などでは済まされない、「御」の字を付けなければおられないというところまで高められて来たように思うのです。

 甘木の初代なんか「御物」と仰ったそうですね。それこそ枯れ葉枯れ枝一枚一本でも疎かになさらなかった。「それとても神様の御物ばい」と教えられた。

 そのように、それはいらないと思うような事柄であっても、私の上に起こって来る事ならば、私に向けられたものと気が付いたなら、それを押し頂いて頂くという事が、私は真の信心だという風に思うのでございます。

 そしてなお最近、「信心はここに極まった」と申しております。それを私は『和賀心時代を創る』と申しております。これは私が創るというのではない。これは天地金乃神様の願いである。神様が創ろうとなさっておるお働きであります。

 どのような問題があっても、どのような難儀がありましても、その中から、これを如何にして和賀心を受けて行くか、和賀心にならせて頂くかという事に焦点を置いたら良い、分からんなら分かるまで本気で修行にも取り組んでみたらよい、と申しております。

 昨日の朝の御理解に皆さんに聞いてもらった『神に会おうと思えば、庭の口を外へ出て見よ。空が神、下が神』という教えがありますねえ。まあ、これは金光教の言うなら神観ですね。また『目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ』教祖が神様を感じられる実感なんです。

 朝露がいっぱい打っておる中を私どもがその葉なり、笹なりを押し分けて、さわさわと音が聞こえてくる、その朝露が足元を濡らす、そういう実感、それを『神の中を分けて通りおるようなものじゃ』と申されているのですね。

 教祖の神様の前には、もう空を仰がれ、天地を拝まれる時、言うなら森羅万象全てが天地の親神様が対象であるところの神様の姿に見えられた。又は神の声に聞こえてみえた。神様との交流、天地との交流がそのようにしてあっておったんだと思いますね。

 だから、天地が神様だと分かっただけではなくて、天地をそのような風に感じれるところまで信心を進めていかなければいけない。天地が奏でて下さるところのリズムに乗った生活を私は信心生活だと思う。

 だから、良しにつけ悪しきにつけ、そのリズムに乗っての生き方ですから実に楽しい、有り難い。もう信心が楽しゅうてたまらんという人は、そういうところの体得が出来ておる人だと私は思う。

 金光様の信心をしよって、私どもの過去にね、あれはいらないとか、あれは困ったという問題のある筈がない。それを生かし得なかった人は、何十年前あげな事がなかったならと言うて、何十年前の事を言うて悔やまなければならん。また腹を立てなければならん。

 信心とは過去の一切が生きてくるおかげを頂かしてもらう事だと、私は思う。だから、これからとてもやはりそういう働きだけしかないのですから、あれもおかげであった、これもおかげであったという時点ですでに、それをおかげとして受けられる。言うならば、それを神愛として受けられるという事である。

 叩かれて痛くても、それを神様なればこそと頂けた時に、叩かれた時点でもう有り難いという事になってくるのです。

 けれども初めからそんなに出来る筈がありませんけども、段々その本当の事を稽古させてもらっておると、そこのところが分かって来るようになる。いわゆる『肉眼を置いて心眼を開けよ』と仰るが、段々おかげを頂いて心の眼が開けて来るようになりますと、事の実相、実態というのが分かってくる。肉眼で見ておる間は、それは病気という形に見えたり、情けない問題として見えて来るのですけれども、心の眼を以て見るならば、それは神様に御礼を申し上げる事以外にないという事になってくる。

 それが一ぺんに開けるとは思われませんけれども、やはり稽古をそこに焦点を置かしてもらわなければなりません。和賀心を目当てとすると言うか、和賀心を焦点にしていくとです、必ず心の眼が開けて来ると私は思うです。

 私の心の中に和賀心を、そして家庭に、そして自分の周辺に推し進めさせて頂くという事がこのようなおかげが受けられるんだという実証をお互いがして行かなければならん。

 私が最近思う事は、もう本当にお釈迦様でもキリスト様でも、一応金光大神のお取次を頂かれなければ本当の助かりにはならないと思うのです。

 なるほど、仏教の一生懸命の信心をしてです、それこそ「善し悪しを捨てて起き上がり小法師かな」ではありませんが、善し悪しを捨てれるところまでは難行苦行をさせて頂いたなら、もうそれこそ何もいらんという心の状態が生まれて来るでしょう。竜安寺にあるお手洗いの石じゃないですけれどもね、「吾、只足るを知る」という心が生まれて来るでしょう。

 けれども、そういう心にならせて頂いたからと言うても、ただ自分が助かるだけでしょう。和賀心というのは、天地書附にもありますようにおかげが伴って来るものです。御利益というものを軽視する人がありますが、軽蔑するならば軽蔑してよいけれども、果たして人間の一人一人にその真意を尋ねた時に、病人が治りたいと願わない者があろうか、貧乏しておる人が財のおかげを頂きたいと願わん者があろうか、人間関係で縺れておるならば本当にここに平和な生活が出来るならばと願わん者があろうか。教祖の御教えにもありますように『天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては家業出来難し。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬に至るまで、氏子身の上の事何なりとも実意を以て願え』と。なんと慈愛あふれるお言葉でしょう。

 願わずにおれないのが私達人間の本来であります。神のおかげを頂かねばここ一寸動けぬのが私達であります。というて、おかげを頂く為の信心ではいけません。実意を以て願う事は、一心に願う事は、天地書附にもありますように、和賀心にならせて頂く事を一心に願うのでなければなりません。

 その和賀心に、おかげは願わんでも頼まんでもついて来なければならぬような天地の法則があるのです。

 私どもはただ和賀心にならして頂く事に焦点を置いていけばいいのです。

 この和賀心とは、人間の幸福の条件の全てが頂けるという程しの心です。それが金光教でいう和賀心なのです。

 このように素晴らしい和賀心というものをどこの国々の人にも知って頂きたい、分かって頂きたいと思います。許されるものなら三味線、太鼓で宣伝して歩きたいような衝動にかられる事もあります。

 私は「和賀心学」なるものが出来なければならぬと思う。そして学問の上でも和賀心というものが体系づけられ、義務教育の中にも和賀心学なる教科があっていいのではないかと思うくらいです。

 それは、なるならんは別として、人間の幸せというのは金でもなければ物でもない。頭が良いから、器量がいいからではない、という位のところまでは明確に分かってほしいものだと思います。

 それを最近、ハイクラスの学者の人達が気付き出したという事は有り難い事だと思いますね。

 確かに人間の知恵や力で以て、月の世界までも行ける程しの事になって来た。ところが、それで人間が幸せになるのではない、という事に気付き出した。「それは心だ、これは心だ」と言い出した。といって「心だ、心だ」で幸せになるのじゃない。その心におかげが伴う程しの心でなければならない。

 それが和賀心である。教祖ただ一人がそれを体得された。和賀心は教えの最高峰と言ってよい。また教えの全てがその和賀心にならせて頂く事の為にあると言っても過言ではないと私は思う。

 和賀心というものをもっともっと追求し、研究して行かねばならない。そして自分のものにしていかなければならぬと思います。

 この和の心というのは、普通で申します和の心、一般的にいう平和の和ではない。佐藤君が頂いたような心です。(第四章・布教参照) 和というのは不壊なもの、壊れないもの、どういう問題が起こって来ても、この和の心が微動だもしないという心を教祖は教えられた。

 もちろん、賀の心とは祝い賀ぶ心と教祖は仰っておられる。赤飯を炊いて祝う時のような心、生き生きと朗らかに明るい、それこそ「おめでとうございます」と言いたい程しの心なのである。

 信心の稽古をさせて頂いて、しかもその和賀心を目指さして頂くとです、不思議にそれが出来る。成程教祖の神様がね『此方だけが生神ではない。みんなもこのようなおかげが受けられる。此方がおかげの受けはじめじゃ』と仰せられているように、総世界人類の者が生神を目指すという事に、和賀心時代を創るという事に目指さなければならないと思います。目指せば誰でもこのようなおかげを受けられると仰るのですから・・・・・・。

 私は昨日、御理解の中にも申し上げた事ですが、例えば母の日に赤いカーネーションを付けたりして、母の日を祝う。それが世界中にそういう流行をみているように、せめてこの三百六十五日のうちの一日でもよい、人間は和賀心にならねば本当の幸せにはなれないのだと分かり、今日だけは「和賀心の日」というような、いわゆる『和賀心デー』というようなものがあっていいのではないかと思うですね。

 それは、五百年、千年かかるかもしれませんが、金光様の御信心させて頂く者はそういう素晴らしい高度の願いを願いとして行くところの精進が必要ではなかろうかと私は思う。

 まずだから信奉者から、まず教団人からそれを推し進めて行く運動、それがそのまま天地金乃神の願いである。神の願い、いわゆる神願であると思います。

 その神願成就の為に、私ども一人一人がその神の手になり足とならせて頂ける御用に使うて頂きたいという願いに燃えなければいけない。いわゆる神の願いと私ども氏子の願いが一つにならせて頂くところまで信心を高めねばならない。

 教祖が申されておられます『此方の祈るところ天地金乃神と一心なり』と申されるのは、一心不乱に願うという一心ではない。天地金乃神と同じ祈り即ち、一心同体という意味のものであります。

 これは教祖様だけの専売特許ではない。お道の信奉者の一人一人が、天地金乃神と祈るところが一心というところになって来なければいけないと思うのです。

 例えば、私どもの祈りというものはそれこそ一しずくの水のようなものである。それが谷川に入り、川に、そして大海に流れ出る。一しずくの水ではあるけれども、谷川に落ちれば、谷川の水である。川に落ちれば、もう川の水である。大海に入ればもう一しずくの水ではなく、大海の水であります。

 天地と一心とは、そのような事になってまいります。言うならば、真実の願いを持っておる人は、願い(根賀以)そのものの光に照らされて、その願いは、願わずとも自然に成就される大みかげになって参るのでございます。




「第五章」 終わり

- 終 わ り -


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制作責任: 中原 博信 E-mail: hiro@wagakokoronet.org