和 賀 心 時 代 を 創 る


第二章 青 年


青春と念願の商売

小僧時代

だんだん長ずるにしたがいまして、私の家は先ほど申しますように酒の卸小売りをしておりましたから、どうでも酒の卸屋をしたいと子供の時から思うておりました。

それで高等小学校を出ますと、久留米の荘島にありました「判光屋」という酒屋に入りました。そこは、久留米で一番やかましいかわりに一番酒の調合がうまいといわれた酒屋さんでした。

有名な頑固なおじいさんで、耳が遠くてそこの番頭さんが長くもたないという店なんです。けれども酒の調合にかけては右に出るものがいないというほどに名人でした。入る時の覚悟がちがいますからやっぱり熱心でした。

それから私はその店に入ってから七年間、毎日久留米教会にお参りをさせてもらいました。もちろん朝は七時に店を開けなければなりませんから、それ前です。ありがたいですね。その時分に十四、五人位、近所の店員や小僧達がついて来ました。ですから私がずーっと起こして廻るのです。ちょうど久留米の教会で、現旗崎教会の教会長御夫妻が御修行中の時分でございました。

その時分のことをよく長田先生が、いまでも「あんたがあの時分よく前掛け姿で参って来よったの」と申されますがね。

あの頃の久留米教会の御ヒレイとはたいしたものでした。あれは教祖五十年祭でしたかね、久留米から千人参りがありました。私も久留米教会からお参りさして頂きました。

その本部参拝のお土産がね、高橋正雄先生の「百万円のおばあさん」というレコードを買って来た思い出がありますね。まあそういう様な調子でした。ですから話はわからんなりに七年間私は、小僧時代から兵隊検査まで、二十一才までおかげ頂きました。


念願の開店と試練

それこそ小売屋から卸屋にならしてもらおうと思うとりますから、七年間貯めたお金がその時分で、どうだったでしょうか、もうだいぶん貯まっておった。ちょっとした店の出来る位になっとったですね。私も楽しむ、両親達もそれを楽しみにしておった。

ところが私の方は、以前から酒屋をしておりますから、近所の○○酒造さんに、買掛金が五円、十円とたまった借金が、ちょうど私が七年間働いただけの金額になっとったです。酒屋というものは今でもそうだが、たくさんの敷金をせんと買えません、卸屋なんか。だから例にもれず私の方もやはりそうであった。それがもう私の考えとしては、これから後をどんどん出してもらわにゃいかん。今までは千の字(四斗樽のこと)一丁で良かったのが、まあ場合によっては五丁も十丁も出さしてもらわにゃいかん。それであと又気分よく出して頂くために、前のお金を払うことに致しました。まあその時分のことを思うと、そのことをお取次頂いてやったかどうかわかりません。ところがですね、本当に血も涙もあるじゃろうかという目に会いました。払ってしまって後は現金ということになりました。

もう目も当てられん。私はその時はね、二晩位寝られませんでした。母が心配してですね、「とにかく親先生にお願いしてのことだから、これから何とかやって行こう、頑張って行こう」と元気づけてくれますが、これによう返事さえ出来なかった。母が現親先生にそのことをお取次を頂いてくれました。

そしたらある酒屋さんに親教会の信者さんを通して「大坪さんが酒屋を始めるから、一つ酒を出してもらえんじゃろうか」と相談してもらった。そのことの御礼を申し上げに参りましたら「大坪さん、今、○○さんからお話があっておったから私の方から出そうと思うたけれども、やっぱり一樽づつぐらいにしてください。」と。

一樽ぐらい借りるほどなら別にどうでもなかったんですけどね。当時、支払いは盆、正月ですから、半年間敷かなければなりません。ですから、向こうの方でも躊躇された訳です。

けどもう仕方ないですね。当時一樽が二十八円位でございましたかね。それで田舎で売っとったんでは出来ん訳ですね、掛けですから。それで私は久留米市内へ販路を求めて参りました。その頃からが調子が出てまいりましてね、どんどん売れる訳です。久留米の酒屋さんよりも安く売る。そこでビール、サイダー、焼酎といったものをいよいよ卸売りが出来るようになりました。


師の二十二才の春、徴兵検査という人生の転換期に当たり、七年間の奉公時代に終止符を打ち、両親の待つ椛目の里で独り立ちする事になった。

「さあ、いよいよこれから本番だ。今迄の苦労から目を吹き花を咲かせる時が来た・・・・・・」この時の師の前途は洋々と開け、吹く風も春のそよ風の如く感じられた事だろう。だがしかし、この師の思いとは裏腹に浮き世の風は師の上に冷たく吹いた。七年間の安い給金の中からコツコツと溜めて来た金を元手に、さあこれから店の立て直しという時に当たり、今迄の取引先の◯◯酒造店より前々からの借金の請求があった。七年間の涙と汗の結晶があっと言う間に一枚の紙切れに化してしまった。

これまでならまだしも、今迄通り半年半年の支払いの約束で返済したのであるが、「これからは現金でなくては酒は出さぬ」という非情の仕打ちであった。そんな現金があろう筈はなく、ただ無念の涙を飲むより他はなかった。この時ばかりはさぞかし骨身に染みて残念であったのであろう、布団の中に潜り込んで男泣きに泣いたといわれる。若干二十二才の若者にとってこうするほか何をなせばよかったのだろう。そんな絶望的な焦燥にかられている時、師の心に甦ったのが「節を大切にする人は伸びる」という言葉であった。この言葉を一回二回と繰り返しているうちに、この節と取り組もう、そして大きく大きく伸びてやるぞという新たなる決意が翻然として開けてくるのであった。これ以来この言葉は師の座右銘として常に師を励ましてくれた。

そんな状態の中でどうやらこうやら商売をやっていたある日、福梅酒造店(田主丸)の番頭さんが師の商売のやり方に惚れ込み、「是非うちの酒を売ってくれ。半年間半年間支払いで結構だから。」という大変な熱の入れようで、その日から入用なだけの酒が手に入るようになった。

もともと商売の道にかけては決して人に遅れを取るような事のない師だけに、売る酒があればしめたもので、得意先は草野、善導寺、大橋、山本、金島、西郷、田主丸、久留米、と広範囲に渡って拡張されていった。

また次いでビール、焼酎の販売もこの地区一帯を一手に占めてしまった。商売は面白いように繁昌し、このまま行けば昔の桝屋(店の屋号)にも劣らぬ桝屋が再建されるぞというほどになった。

金と時間に余裕が出来てくると自然に足をふみ入れるのが道楽の道。これは血気盛りの若者にとって一度は通らねばならぬ関所でもある。また商売が商売だけにつき合いも広く、はでなもので無理からん事でもある。踊り、端唄、小唄、芝居、骨董、茶道、着物、とその道楽たるや多趣多芸を極めた。師の場合これが商売の媒介役にもなっていた。師が商売に行くと酒を待つのではなく師の踊りや唄を待っていたというお客も少なくなかった。

商売が師の命である、師にとってこの場合「遊ばせた遊び」というより「商売が遊ばせた遊び」といった方が適切かも知れない。出鼻をいやという程たたかれた師は、「商売の為なら」という思いが常に心中に去来していた事だろう。

美しくきらびやかなこの青春花も、鮮かな色どりをそえて咲きほころびた。しかしこの花も若さが咲かせた青春花でなく、商売が咲かせた青春花であった。

『根賀以』十七号「親先生御伝記」より転載



低 迷

そういう時分に私の信心はどういう事になりましょうかね、言うなら遊びを習った訳です。行く所がみな待合とか料亭とかですからね。あの時分に三味線も覚えた、踊りも覚えた時代であります。それはもう面白い愉快な商売でした。

その時分に私は御神米というものをいつも肌身離さず、赤い袱紗に包んで持っていた。ところがいろんな理屈をつけて悪い遊びをせんならんごとになったら、もう神様は吾と共にあるのだから、と言うて置いて行く。然しそういう時代もまたあって良いと思うですね。

今から考えますと、一つも無駄がなかったということです。

それから青年期に入って、商売が面白く出来るようになった頃から日支事変の時代になるわけです。そこで酒屋というのがみんな企業整備になる。いわば配給になるということになりました。

いろいろと行く末のことを考えさせられておる時に、渡りに船のように、満州の大きな酒屋さんが、北京に支店を出すというので、どうでもその支店長として酒のことも分かり、商売もでき、事務的なこともできるような人を探しておるから、大坪さん、あんたなら出来ると思うてお願いに来た。という話で、もうこちらも二つ返事でそれを受けました。


大陸に渡る

そして北京時代の十年間がございます。こちらでも本当に面白いように儲かりました。もう内地には、年に一、二回遊びに帰って来るだけでした。気候は良いし、お金は儲かるし。こちらは椅子に腰かけてタバコだけ飲んでおればよいのですからね。その頃の私の信心は、おかげ信心につきとったように思います。それでも「さあ」というような時にはね、親教会に電報を打ちますと、もう郵便局に行った頃にはおかげ頂きよりました。本当にこれだけははっきりしていました。ですから、親教会にはいつも電報でお願いさして頂きよりました。北京で教会を見つけた時には嬉しかったですね。

それでまあ、信心はしておるというても、幼年時代、少年時代、そんな素晴らしい雰囲気の中に育ちながらです、段々に自分の知恵、自分の力、自分の腕を過信するようになりました。私はもう商売の神様になろうというようなことを豪語しておった時代があります。それは私は商売は本当に上手じゃったです。北京は何といっても大したところです。大きな「灘」あたりの酒屋さんが十軒ぐらい来とりました。ですから、それに対抗してゆかにゃならんのですからね。それも一升、五円で売っとるのなら、私は絶対五円五十銭で陳列しよりました。そうすると不思議に酒はあまりようなかっても、五十銭高い方が売れよったです。『商売をするなら、買場賣場と言うて・・・・・・人が口銭を拾銭かけるものなら八銭かけよ・・・・・・。』とおっしゃるけれども、私の商売時代は本当に十銭のものは十一銭で売ってきました。


おかげ信心

そして私の心の中にはね、御用すれば良かと思うとったです。だからもう、ころっと余分に儲かったとだけはお供えする。それで自分の腹はいっちょも痛まんとですたい。それでも神様はやっぱりおかげ下さったのですよ。矢張り、御用すりゃ助かる、御用すりゃ助かるという人はそういうところじゃなかろうかと思うんです。

実際はそうじゃない事が段々に分かってまいりました。

またお取次を頂くということがです、本当にお取次頂こうと電報を打ちに行く時には、すでにもうそれこそ時間、空間はないというようなことを私は体験させて頂いた。

私はその当時の自分の気持ちは今から思いますと、真の信心でも何でもない。言わば金光様の信心すればおかげを受けるということであった。けれどもね、これはどこに参りましても八つ波の旗がはためいておるなら入らなければ居られなかった。私は福博の町で修行させて頂いとった時代でもそうです。ですから私は、福岡市内の教会の殆どお参りを致しました。看板に何々教会と掲げてあったり、旗があったらとにかく入らねばおられなかった。そこで違った信心を見習おうとか頂こうでなくて、もう金光様の「金」の字を見て感動する位ですから、そこに教会があるのですからお参りをせなければ、前を通ったらお寄りしなければおられん。出張すれば出張先で教会を尋ねました。勿論お参りしてくるだけなんです。

そういう時代、私の道楽時代というか信心低迷時代がありました。いわゆる二十五才から三十一、二才までがそうです。

道楽のこれが末だといわれる骨董類までも買い求めて楽しむという時代でありました。

これは修行時代に入ってからのことですけれども、「好きな三味線も握りません、踊りも踊りません、歌も歌いません。又、自分が好きで好きでたまらん骨董品も集めたりしません。」と神様にお誓い申し上げたことがありますけれど、神様は腹の底をやはりご存知です。本当に神様というお方は、怖いお方ばってん有難いですなあ。

「あれがあんなことを言よるけど、あれがあんなに喜ぶもんなら・・・・」というのでしょうね。ここに集まって来る物を御覧なさい。どの部屋に行っても骨董品でいっぱいです。

私は金光様の信心するなら、やっぱり豊かな、より優雅な生活をさせて頂けるおかげを頂きたいと思います。私はですよ。

ですけれども自分から背伸びして、あれが欲しい、これを求めようとは思いません。けれども集まってくるものならば、私は有難く頂こうという主義でございます。



死線を越えて

入 営

それから、いよいよ終戦でございます。

これからが私の信心がいよいよ本当な事へ姿勢が向いてくるのでございます。

もう本当に目も当てられないことでございました。まあ、ここの中でちょっと申しますならね、私がちょうど北京の方で現地召集を受けておりましてね、半年間召集を受けておりました。まあ今から思いますとね、不思議な事の連続でございました。

私がいよいよまいりますという日に、皆さんが寄ってくれましてね、送別会。そこで酒盛りを。そして久し振りで大坪さんの三味線が聞きたいというものですから、家内が三味線を出して来てからですね、調子を合わせて弾こうとしたとたんに「パチッ」とさけたんです。三味線が弾けなくなりました。やはり不吉な思いを致しますよね。

いよいよ明日は入隊だというのに、私が大事にしとるその三味線が「パチッ」と破れた。私は半年間、行っとる間に戦闘帽だけを三べん失くしとります。

私の班に元不良少年団長というイレズミ者がいましてね、こんなイレズミしとるとです。

それがね、私はある時その人を助けてやったことがあった。それをまあ、恩を感じたんでしょう。もう私をかげになりひなたになりして守ってくれるんです。

私が帽子なんか失くしますとね、被服倉庫に忍び込んでから新しいのを取って来てくれる。というように、大変おかげを頂きました。

入隊しましたところがね、大谷(タイコク)というところでした。山西省の太原(タイゲン)のちょっと手前の大谷。それはその時は感じなかったのですよ。

それから、終戦を迎えたのは、それからずっと山奥に入りました、大坪荘(タイピンツァン)という大きな部落でした。

中国にはね、この「坪」という字は無いのですよ、漢字に、中国の字引には。ところが、私どもが最後に行ったところはね、大坪荘というのですよ。中国語でいわゆる大坪荘というところが確かにあったのです。だから、詳しい地図を開くと必ずそれがあります。

入隊したところが大谷、最後のところが大坪荘。そういう御守護の中にあった事を今になって思います。その中に三回ほど、今日はいよいよむつかしい、今日はいよいよ駄目だと、もう足がガタガタ震う、そういう目に逢った。

もう終戦前は、兵隊とはこげん楽なところじゃろうかと思うくらい楽でした。私はそれは特別じゃったです。


兵隊「芸者」

あちらにまいりましてから一週間しましたら、大谷神社の夏祭りがありました。はじめて神社が出来たんです。

太原から神主さんを迎える。ところが、その太原と大谷との橋が毎日かけては爆破され、かけては爆破されるという時代でした。

いよいよ今日お祭りだというのに、神主さんがおられんわけです。それで上官がやって来てですね、「神主はおらんか、神主はおらんか」といってきました。どこにもおる風じゃないです。

「私は神主じゃないばってん、天津祝詞か大祓ぐらいならやりますよ」と言うたら、 「うん、それでよかよか」という訳ですよ。

そこで私がいよいよ神主を勤めることになりましたから、中隊長のところへまいりましたら、「そんな恰好じゃ、お前いかんぞ。被服係に言って新しいのと替えてこい」と言われましたので、その旨を被服係に申しましたら、 「お前はふ(運)のよい奴じゃねえ。フンドシから靴から一切神様の前に出らにゃならんとじゃから」と言うのですね。

それからもう玉串から作りました。榊なんかありませんからね。

妙な木を沢山、切ってきとるのでいろいろ作って。もう本当に「盲蛇に怖じず」ですよ。それこそ一生懸命で大祓をあげて、おかげで、まあつつがなくお祭りが済みました。

その翌日が大変なんです。

あくる日は全町あげて、中国側と日本側とね、懇親の演芸大会がありました。

中隊からいろいろ選抜されまして、それなら私が三味線を弾こうということになりました。

舞台で私が三味線を弾こうということになりましたら、近くの料理屋のお女将さんが来ましてね。

「兵隊さん、そんな恰好じゃいけません。家の主人の着物を持って来ますから、ちょっと待ちなさい。」と縞の着物に角帯を締めて、そして三味線を弾いたんです。

「あら、あの方は昨日の兵隊さんだわ」 「神主さんだわ」(笑声) というわけなんです。神主があくる日は替わって芸者さん。さあそれから町に出ますと、あっちこっちからもう 「家に来て」、「家に寄ってくれ」と大変でした。

それから中隊長が、鹿児島の人でしたが、非常に小唄の名人で粋な人でした。ですから、私は中隊長の当番をさせられました。

電話の当番と、功績名簿の小さい字を書くのとだから、私は大体半年の間、銃剣術の稽古をしたことがない。鉄砲の掃除をしたことがない。大体機械に非常に弱いのですよ。そして中隊長がそれを平気にしてくれました。晩は、 「ビール一本がちょっと多過ぎる。ちょっと助けんか」といわれる訳です。

ですから一杯か二杯助けてあげねばならん。それから料理が卵とかしわばかり。

ところが私はその鶏を料理することができんけん、もう我がよかごと。

「今日は中隊長、フランス料理でございます」とか何とかいうてから、わがよかごたるのを作って出しよりました。すると「このフランス料理は美味か。もう一ちょ作れ」というわけです。(笑声) 本当に兵隊とはこげなことでよかろうかと思うくらいでした。

ところが、その反動が三ヶ月後に現れました。

その三ヶ月の間にそれこそ死線を越えるというようなことが三回ありました。一回などは夜襲の時に班長が負傷を負い、その死んだごとある班長を背中に負うて隊に戻る時に一斉射撃を受けまして、何人かその時戦死しました。真暗闇の中から撃ってくるその真只中を線路づたいを帰らねばならぬ訳です。真暗やみの中ですから、敵か味方か分からん中を「山と川の合言葉。」、その「山」と「川」と言う時に、向こうが味方じゃなかなら、もうそこで殺されにゃならんのですからね。

もう足はガタガタ震いよる。けれども不思議に「私だけは助かる、私だけは助かる。金光様が私を守って下さる。」という思いが、足はガタガタ震いよるけれども心の底から湧いてくるものがあった。

金光様と唱えたかどうか覚えませんけれどもね。

そういうおかげの中に終戦により北京を引揚げということになったわけです。


再び故郷へ

引揚げにかかるとそれこそ一切合切のものをあちらに置いて、めいめい持てるだけの荷物、一人に千円あて、ちょうど長女が四つか五つでしたか、若先生が三つでしたから。

あの人がやはり自分の食べるだけは背負うて来ましたからね、背負わせました。

四、五町ぐらい歩いて行かねばなりませんからね、大きい荷物を持って。そして、勝彦(若先生)はきつくなったのでしょうか、リュックサックを背負うて。

「もう、僕は歩かん」と言う。

もう欲と二人ですからね、背負いもする、持ちもしてる時でしょう。

家内はちょうど愛子(二女)をお腹に入れてる時です。もうどうにも出来ない時にね、本当に「金光様、金光様」と唱えましたらね、日本の兵隊さんが使役に来とりました。絶対にこの人達は日本人に手伝ってくれることは出来ない人達です。それが勝彦を抱いてからずーっと駅のところまで連れて行ってくれました。

そういうどさくさの中に、一生懸命の思いで内地に引揚げて、佐世保に上陸いたしました。もう大刀洗がやられておる、善導寺がやられておることの写真があちらで出ておりましたから、椛目あたりはもう無いかもしれんと思うて帰ってまいりましたら、おかげで無事でございました。

それから帰ってこらして頂いた喜びも束の間、もういよいよ食べる事に追われる時代でございました。遅配欠配のはげしい時、その時に私の心の中に感じましたこと。

私が北京三界までまいりましたのは、どういう事が目的だったか、もう本当にこの親に喜んでもらいたい、この親に孝行したいばっかりの一念でした。ただこれだけ。

ところがお粥さんもすゝりかねるといったような状態の中にあってね、もう目もあてられんと思いました。



今を盛りと咲き誇ろびたその花もいつの日か無常の風に散る日が来る。

商売も繁昌の一途を辿った。その中に世界の雲行きは怪しく、又業界(酒販)もそうであった。

昭和十二年七月、ついに蘆溝橋事件を機として日中が衝突し、やがて全面的な戦争に拡大していった。業界にも配給制という統制の噂が専らで、師の行く手をはばかるような勢いであった。が、商売への根性、願いはまた、人を動かしめた。浮羽郡の塩足鶴吉氏(奉天の松岡酒造合名会社)が、北京支店長の人材を求めていたのである。

「うの目たかの目」、彼の目は師をもって他を任じなかった。「大坪さん、あんたの他はなか・・・・是非・・・・」と懇望され新天地を夢見るようになった。

祖母、両親もちろん親先生のお許し頂いたことで決意、名実共に師は遠く北京の地へ馳せていた。昭和十三年、二十五才の秋、柿も熟した頃であった。狭い日本に住み飽きた、支那には四億の民が待つ・・・・であったろうか。

否「両親に喜んでもらえさえすれば・・・・」の大願が秘められていたのである。千代田雪太氏、塩足俊雄氏は酒店の杜氏として働いた人達である。

事業は順調に進み、氏の心に余裕が現れ、経営の上にも実際には結婚問題として発露した。近所に釜山から移動して来た三好洋服店とは、親戚同様の交わりを持っていた。主人の義妹をという話は世の常か。―彼女の両親は釜山での成功者であったが、兄の失敗で傾き、母子二人小倉にひっそり身を寄せていた。― 北京での対面、幸のキューピットは若人の意を貫き、凛然とした決意で通ったのである。理想の人、鶴谷五十枝(大正六年七月八日生まれ、二十三才)。三人兄弟の末娘にもかかわらず母親は彼女にかかっていた事も、師の目をとらえた。

また、母親も婚期を知っていた。そして密かに祈っていたのである。

内地からの話もある。しかし理想を確信し、時を待っていた。その理想の出現なるや師の心は内地の両親のもとへ飛んだ。

親先生のお許しは頂けたが、親戚の反対は非常に強かった。反対を反対にさせなかったのは、両親の師への信頼の程である。「総一郎が気に入っとるとば、私どんが何ち言うの」 もともと最初の出会いで「ははあ、この人は俺の家内になる人だなあ」と直感し、両親の許しがあれば・・・・・・という帰省の目的は果たされた。帰途の師の腕にはすでに「茶着物」があった。まさに昭和十六年六月二十二日、師二十七才、五十枝二十四才の年である。

大東亜戦争も破竹の勢いで勝利に次ぐ勝利に酔い痴れたさなかである。

新家庭は師を一層商売に油を注ぎ、三百石は五百石、五百石は七百石と醸造され、全く驚くべき成績だった。しかし、戦争が苛酷になるにつけ企業整備の煽りを受け、廃業のやむなきに至った。

しかし既に師の腕は認められ、総領事館の販売部責任者のポストが待っていた。隠匿物資を摘発したもので、内地と比較にならぬ程豊富であった。その中に十七年五月二十九日長女豊美の出生が訪れ、春の香漂う一家であった。商売、親孝行の絶頂はここにあったに違いない。

十九年一月、突然四十度を越す高熱に襲われ、腸チフスの診断を受けた。いよいよ隔離という時、夫人の足は北京教会に向かっていた。熱祷は天地を動かし、医者が疑った程で、これが長男勝彦出生の直前である。翌二十年応召。

華やかな北京生活に終止符を打つ時が来た。二十一年裸一貫で引揚げざるを得なかった。青雲の志を抱いて渡った日本海を九年経た今渡る師の姿を誰が予想したろう。華やかな生活、それは一時の幻と化し、霧に包まれ、厳しい洋々たる海原が待ち構えていたのである。

翌年の昭和二十一年五月、そのような天地の大流動の前に、師の人力と手腕の限りを尽くして営々と築き上げられた地位も名誉も一瞬の内に脆くも崩れ落ち、青雲の志もどこへやら、親子四人裸一貫同様の状態で帰路の途につかねばならなかった。

「この時ほど人間の運命の無常さと、それに対する人間の無力さを痛感したことはない」としておられる。

帰郷の途につく師の心中に、無常の鐘の音は寂莫たる余韻を残して鳴り響き、今日までの自分の歩いて来た数々の出来事が、まるで悪夢の如く次々と師の心中を去来して行った。

そして自分の今までの生き方、信心の在り方の余りにも浮いたものであった事を気付かれた。今までの信心は、ただ商売が繁盛しますように、病気が治りますようにと、ただおかげ目当ての信心に過ぎなかった。

また、親に喜んでもらいたいばっかりにやってきた商売も、今の私は子にも満足に食べさせる事も出来ない。親にすら美味しい物一つ食べさせる事の出来ぬ私ではないか!そんな私がどうして一人前に食べる資格があろう、着る資格があろう・・・・・・。

そしてこれより粥一椀、着る物とては一年を通じて色あせた夏服一着という生活が始められるのである。

骨身にカンナをかけられるような難儀に出会われた師は、この時、心にもカンナをかけて改まる事に、磨く事に向きを変えられたのであろう。そのような決意のもとに再び椛目での生活が始められた。ところが、それから間もなく企業整備の波を受けて酒の小売りは廃業の止むなきに至り、ここに生活の道は全く断たれてしまった。この時、一途の信心をなさっていた師は「神様が酒の小売りをお取り上げなさったのだから、次にもっとよい生活の道を与えて下さろうとする御都合に違いない」と意気消沈する家族の者を励まし自分も励まされた。

生活の道が断たれながらも精一杯生きて来た家庭の中に舞い込んで来たのは、今の今まで無事安泰を神に祈り、帰還の日を今日か明日かと楽しみにしていた、実弟大作の戦死の公報の悲報であった。

『根賀以』十八号・十九号「親先生御伝記」より転載


「第二章」 終わり


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制作責任: 中原 博信 E-mail: hiro@wagakokoronet.org