合楽教会 夏期信行 ミニ御理解 (平成11年7月)


七月三十一日(栄四郎先生)

御理解 第四十六節
 痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ。


平穏無事ほどありがたいおかげハないはずなのに、おかげをおかげと実感できなく
なるのハなぜであろうか、いつのまにかあたりまえのように思うたり、やがてハも
の足りなくさえも感じてくる。
先ずハ、痛い、苦しいその事柄を、神愛と悟り、拝める信心が土台になけれバ、
「いつもまめな」中に有り難い心ハ生まれてきません。
「今あなたが有り難いと思うておることハ、勿体ないでなけれバなりません。今難
儀と感じておるそのことが、有り難いでなけれバなりません」と初代ハ教えられま
した。
平穏無事を、信心のエネルギーに出来るようになれバ、限りないおかげの世界に住
める事でしょう。



七月三十日(栄四郎先生)

御理解 第四十五節
 世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどか
  がむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげること
  を忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
  とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番
  恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱った
  り手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取
  りはずすぞ。


難儀をエネルギーに出来る人ハ多いが、平穏無事をエネルギーにする道を、人類ハ
しらなかった。
親苦労、子楽、孫乞食(コジキ)
栄枯盛衰ハ世のならい
ここに終止符をうつために
一、吾無力を悟る事
一、「徳ハ借り物。一生借り続ければその方のもの」をわかる事
一、各々の成り行きの中に一切神愛を体得してゆく事
一、大願の氏子として神願成就に生きぬく事
金光教の道の栄えを末代まであずかり続けられる信心を頂きたい。



七月二十九日(栄四郎先生)

御理解 第四十四節
 狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれ
  ば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。


万物の霊長でありながら、犬畜生にも劣るものをもっているのも人間です。我情我
欲があるからです。
「はい」の一言ハ吾死するも同じこと
小我を殺し大我に生きよ
好き嫌いをいわず
良し悪しをとわず
清も濁もこえて
一切をうけ入れるドン腹が決まる時
万物の霊長としての輝かしい扉ハ開かれます
素直心のひとつにて
      雲の上までのぼる道あり



七月二十八日(栄四郎先生)

御理解 第四十三節
 死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願い
  せよ。


「寝(しん)のうちに、真(しん)を得、身(しん)も、神(しん)も、養ってい
るのであります」
悪い夢をみて、気分を乱して目がさめる時もあれバ、又、有り難いお夢を頂いて、
感動の中にお目覚めを頂く朝もあります。
十円をポケットに入れて旅をしている人と、百万円を懐に入れて旅をしている人で
ハ、自ずより、その要心がちがってくるように、「お徳ハ借り物。一生借りつづけ
れバその方の物」ということがだんだん分かってまいりますと、寝た間にも神様の
おかげを頂かずにおれんことを実感いたします。
白露をこぼさぬ秋のうねり哉



七月二十七日(栄四郎先生)

御理解 第四十二節
 これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信
  心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心して
  ゆけば、そこからおかげが受けられる。


一切神愛の世界に住むこの身であってみれば、「どうして」ということハない。一
切「こうして」という答えが出る筈なのに……。
ある時、初代ハ「知ってハいるけど分かっていない」と頂かれました。
今、受けておる難儀・問題こそが、知っているだけの一切神愛を、腑≠ノおとし
て下さる絶好の働きです。
成長して大人になれバ、苦いお酒も五臓六腑にしみわたるものです。
腑≠ノ落ちた時が、力となり、お徳となる時でハないでしょうか。



七月二十六日(栄四郎先生)

御理解 第四十一節
 信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。


「練り出す」とハ「生みなす」ことです。
神と人とが合楽するところに、生みなされる新世界ハひらけます。即ち、徳の世界
です。
お徳を受けてゆくと、そこにハ生かし生かされる働きが始まります。
「無茶苦茶」ハ「苦茶無茶」に、
「無情」ハ「有情」に、
一九九九年七の月(地球滅亡の月――ノストラダムス大予言より)
今、正に合楽において、
「寒天危地を歓天喜地へ」
の新世界が生みなされようとしています。
われ合楽の使者たらんの熱願が急がれております。



七月二十五日(栄四郎先生)

御理解 第四十節
 重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家
  業を勤め勤めするがよい。


「ありがたし」の心が、すべてを生みなしすべてのめぐりをもとかす。
今日より少年少女会の和賀心長期入殿がスタートします。二日前から娘の寛子が、
呼吸をしても胸と背中に痛みが走ると、神様におすがりしておりました。昨夜娘が
言うのに、「いつも健康なのハあたりまえと思っていたが、そうでハない。神様の
おかげの中にあることがわかった」と。
この実感で、子供達の健康を願わせてもらいたいと、班長としての自覚が出来たこ
とを喜んでおりました。今朝から、はずんだ声で、お父さん胸の痛みがなくなった
と申しております。
夢を始めた人がいて
      夢をうけつぐ人がいる
今日からの合宿が楽しみですね。



七月二十四日(栄四郎先生)

御理解 第三十九節
 此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。


「たしか」「たかし」と初代ハ頂かれました。
山奥に入って行場を求めるのでなく、私どもの足もとにある家業を行とみきわめら
れた教祖。さらに、日常茶飯事にかかわってくる成り行きこそ神様が私に求められ
る修行、と極められた初代。
ここに、誰もがどこででも天地に交うていける、前代未聞の行場はうちだされた。
これほど高度な行場はあるまい。しかも、そこにハ「たしか」なおかげが約束され
ています。
「合楽理念ハ簡単です。明瞭です。しかも、おかげハ確かです」



七月二十三日(栄四郎先生)

御理解 第三十八節
 垢離を取るというが、体の垢離を取るよりは、心のこりを取って信心せよ。


水ごりをとる迫力をもって、心のこりをとれ。
小我を捨て、成り行きという徳の車にのれバ楽です。
我情我欲をとればよいというだけでハありません。我情我欲をガソリンとして、成
り行きという徳の車にのることです。我情も我欲も、いるからあるのです。
成り行きを大切にしていくところに、うれしく、気もちよく、我情も我欲も、自ず
よりとれてまいります。
広けれバ広く狭けれバせまく
      水ハながるる不平もあらじ



七月二十二日(幹三郎先生)

御理解 第三十七節
 生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読
  むようなものであろうぞ。


本を読み、本から学ぶ者を学者というなら、成り行きを読み、成り行きから学ぶ者
は成り行き学者である。

 成り行きを尊び受ける生き方を
        学びて永遠の生命とぞせん

 萩桔梗(はぎききょう)中に玉章(たまずさ)忍ばせて

    ※寂しいようなことが起きてくるということの中には、ご神意があるとの意



七月二十一日(幹三郎先生)

御理解 第三十六節
 日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人
  に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多く
  の人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければ
  ならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおか
  げが受けられる。


神さまを身近に感ずれば一心が立ちます。この一心を出して神に向かえば、すぐに
神さまは心開いて下さいます。

  成行きは 己が心の鏡なり
        おのが姿を うつしてやみん
  成行きは 己が心の砥石なり
        磨き研かれ 光ります
  成行きは 神の愛撫ぞ有難く
        拝(おろが)みまつりて 神人合楽



七月二十日(幹三郎先生)

御理解 第三十五節
 信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日
  と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はな
い。


不和のない、不安のない、自由なる世界。
即ち「和賀心世界」という新大陸を発見された教祖生神金光大神様。
「神様を信ずる者は、何をするにしても遊ばせていただくのである。広前の奉仕で
遊ばせていただき、商売でも農業でも遊ばせていただいているのである。みな天地
の間に、うれしく、ありがたく遊ばせていただいているのである」
                                                        (近藤藤守の伝え)
どうでも、このような世界に住みたい。行きたい、飛んでいきたい。ために、
独立  独歩  独楽  合楽



七月十九日(幹三郎先生)

御理解 第三十四節
 ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよ
  いようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝
  手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。あり
  がたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を
  改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。


  知っているつもりが  わかっていなかった。
  行じているつもりが  道を歩いていなかった。
「神の一言」を心からわかり行じてゆけば、みやげは、舟にも車にもつめぬほどの
神徳がある。



七月十八日(幹三郎先生)

御理解 第三十三節
 お供え物とおかげは、つきものではないぞ。


「守、破、離」
教祖は、当時の信仰的迷信と、人間がつくり出した俗信を、次々と打破していかれ
た。
「日柄方位」を徹底して「守」られた教祖だからこそ、迷信というカラを「破」る
ことが出来られた。(「カラ」に傍点)
お供え信心
御用信心
親先生依存信仰
のカラを破って、自立の信心を歩いていきたい。(「カラ」に傍点)



七月十七日(幹三郎先生)

御理解 第三十二節
 女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげ
  がある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、
  あたることなし。


「成り行きは神の働き」という見識を落としたら、世(心)が乱れるぞ。神のひれ
いもなし。親のひれいもなし。
「成り行きは神の働き」という見識あらば、あたることもさわることもない、おか
げが頂ける。
しかし、知識としての「成り行きは神の働き」では、常識パワーに一蹴されてしま
う。
  ※見識=物事の本質を見通す、すぐれた判断力。(広辞苑第四版)



七月十六日(幹三郎先生)

御理解 第三十一節
 信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ち
  になれよ。


「形のまねは出来ても心のまねが出来ぬから」虫がわく。
お礼を申し上げるというても、天地の御恩恵も悟らず、又自分の身の程もわからず、
形の上だけの御礼は偽礼。
最低最悪の私のような者が、最高最善の神の恵みを身に受けておることがわかって
くれば、自ずから湧いてくるお礼が云える。
ある人の御神夢に、初代親先生とお茶粥を頂いている様子。
初代親先生が、「成り行きを頂くといっても、四年半の修行の意義が分かっての成
り行きの尊び方、頂き方でないと、広大無辺の成り行きにはならんもんの。お茶粥
がおいしいね」とおっしゃった。
最低の食事、不要物の木の切り株にも、心から御礼の申される信心を身につけたい。



七月十五日(光昭先生)

御理解 第三十節
 神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない。


神を利用する者は多いが、
神に利用される者が少ない。
目先目先の助かりにみきりをつけて、
普遍的助かりに目覚めよ。
そこから、天地と合流する神様任せの信心、
即ち「成り行きを尊ぶ」という生き方は生まれたのである。



七月十四日(光昭先生)

御理解 第二十九節
 桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労して
  おるから長う散らぬ。


私願成就の信心より神願成就の信心をせよ。
神願成就のための信心とは、例えば、「右と願えば左」というような時、「今、神
様がままになっておられるのだ」とわからせてもらえる信心。
どういう時も、神様の心を心としていく信心。
そこからしか、長う散らぬ子孫繁昌家繁昌の道のおかげは頂けぬ。



七月十三日(光昭先生)

御理解 第二十八節
 病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九
  分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるよ
  うなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるま
  で、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せ
  よ。


今朝の御理解で、「自然に同化する」と頂きました。
この生き方が出来れば、必ず、病気災難の根は切れる。
「自分でどうかしよう」とするところに、いつまでも難儀は難儀のまま、根は続く。
どうでも、病気災難を取り除くという信心から、その病気災難を拝んで頂く、即ち、
「成り行きに同化する」生き方を目指して、元気な心で信心を頂きたい。



七月十二日(光昭先生)

御理解 第二十七節
 昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸
  なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろう
  が。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておか
  げを受けるのとは別ものぞ。


『別物』のおかげを頂くためには、「神様のおかげを頂かなければ立ち行かぬ私」
を悟らせて頂いて、この成り行きで改まろう、その成り行きでみがこうという信心
に、本気で向きをかえていかなければならない。
そこから、どういう不正直の者でも、鬼か蛇かという性格をもっておる者でも、必
ずおかげが受けられる。



七月十一日(光昭先生)

御理解 第二十六節
 信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れが
  いろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。


同行二人
いつでもどこでも神様がつきっきり、という実感の頂ける信心を、「ひとり信心」
というのである。
『成り行きは銘々(めいめい)のもの』
この成り行きで、主人も改まってくれたらいいのに。家内も……。子供も……。
(「主人も」と「家内も」と「子供も」の「も」に傍点)
これではいつまでたっても、ひとり立ちの信心にはなれない。
「主人も」と望むところに、いつまでも、「ひとり信心」に進んでいけないのでは
なかろうか。
(「主人も」の「も」に傍点)



七月十日(光昭先生)

御理解 第二十五節
 信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。


人智人力で開かれた人類の歴史ハ、今まさに、迷いの時代に突入している。
ここに大きく進路変更が願われる。
初代の歩まれた道は、「馬鹿と阿呆で道を開け」。
ここに一心と定めて進んでいかれた。
そして今日、合楽は、確かな手応えの中に、末広がりの繁昌の道が開かれている。

○「馬鹿と阿呆」は最高の智恵。
  こんな大きな生き方はない。



七月九日(光昭先生)

御理解 第二十四節
 人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の
  信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢
  信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力を
  そろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信
  心をせよ。


只今、ある方のお届けに、
「神様は声もなし形も見えぬ。私共に話をしたくても、自由に話すこともできられ
ないのだから、こちらが神様の声を聞いてやらねばかわいそうだ、と気付かせて頂
きました」
とありました。
つけ焼き刃の信心(おかげ信心)は、神様を使う信心。
真の信心とは、神様に使われる信心。



年七月八日(光昭先生)

御理解 第二十三節
 氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄
  るようにせよ。


神様が恐(こわ)く見えるのは我情我欲のせいである。
「幽霊の正体見たり枯尾花」
幽霊(難儀)の正体がわかるためには近よらねばならぬ。近よるということは、ひ
とつひとつ我情我欲を取りのぞくことである。
そこには神を恐れることのない、神の恐れいる働きにふれていくことが出来る。



七月七日

御理解 第二十二節
 天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受
  け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよとい
  う心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。


「まゝよ」ハ究極の助かりの世界。
凡人がその究極の世界に至る事は、不可能なことであったのでしょう。
しかし、それを誰でもが楽しく有難くたどって行けれる道を、大坪総一郎という方
が明らかにして下さいました。
成り行きの階段を、一段一段登って行くことです。



七月六日

御理解 第二十一節
 信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中にお
  っても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯が
  なければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。


信心にならぬと、
売れた売れないばかりが問題になる。
人の足元ばかりが問題になる。
人の目ばかりが問題になる。
痛いかゆいばかりが問題となる。
わが心が神に本当に向かったらどうなるか。
その問題の向うに神の姿を見る、
神の声を聞くことができる。
そこには『どうしてからこうして』ということになる。



七月五日

御理解 第二十節
 此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞
  かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるが
  よし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。
  言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。


教祖さまの御事跡をたどらせて頂いて、いよいよその実感を強くさせられます事は、
教祖の御教えは、ご自分の生活体験、又は信心体験の中から、すべて生みなされて
いるということです。
しかも、その助かり方は際物(キワモノ)≠ナはない、流行ることもなければ終
りもないという助かりなのです。
  ※際物=その時を失すれば無用・無価値となる。(広辞苑第四版)



年七月四日

御理解 第十九節
  金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。


願ってもすがっても教祖さまは、姿も形も現して下さいませんでした。
教祖さまはウソを仰っておられるのだろうか……。
教祖さまはウソを仰っていなかったのです。
只、私と教祖さまの波長が合っていなかっただけでした。
「和賀心チャンネル」に合わせることです。
そこにここに教祖を感じることが出来ます。



七月三日

御理解 第十八節
  此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々が
  みな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおか
  げの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。


日々の生活の中に、我欲を育てるのか、神性を育てるのか、
いつもその問いをつきつけられているのです。
選ぶのはあなたです。
思えば蛇蝎(ダカツ)のような私の心の中に、今ではこのような有難い心が芽ばえ
て来ております。



七月二日

御理解 第十七節
 神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。


今、御祈念前にガンの宣告を受けられた方の御取次がありました。
今朝の新聞に病苦、生活苦等での自殺者、昨年一年間で三二、八六三名という記事
がのっていました。
世間の人はそんな時「神も仏もあるものか」と申しますが、真実はその時こそ神の
綱が投げかけられたのです。そこからの成行きの綱にすがることです。

○ 落ちぶれて袖に涙のかかる時  神の心の奥ぞ知らるる



七月一日

御理解 第十六節
 無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。


無常の現世(よ)にあって
永遠の助かりを頂きたいものです。
それには神徳を頂くことです。
徳光
まずは徳の価値(ねうち)がわからねばなりません。
ひまわりの粛々としてはげしさも
  ※粛粛=おごそかなさま。(広辞苑第四版)





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