金 光 教 合 楽 教 会 の 御 理 解

平成12年5月14日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第49節
 信心は相縁機縁。


不思議と縁をうけながら、妙賀(信心のよろこび)にもふれずに縁を切ってゆく人、
富貴繁昌のもとにもなるおかげも、うけられるのに。
おしいことである、悲しいことである。
 茗荷栄える蕗繁昌
                             (昭57・7・9)


 先日の福岡支部大祭の後に、菊栄会の秋永文男先生、高橋さん、東さん、戎浦さ
んが壇上に並びまして、パネル・ディスカッションと言うんでしょうか、面白い形
の信心共励会みたいなものがありました。それで、最初に、合楽にご縁を頂いた動
機を話しておりましたが、本当に、それぞれが、これは、この人達だけじゃなくて、
皆さんの場合も、この合楽理念を頂きましたその動機、成り行きというものは、
「神縁まことに不思議にして」と言われますけれども、不思議な縁を頂いて、合楽
にご縁を頂いておられるのです。ですから、私は、それを見聞きさせて頂きながら、
お互いが、せっかく合楽にご縁を頂き、金光教にご縁を頂きながら、金光教にご縁
を頂いた価値、または、合楽教会にご縁を頂いた価値を価値たらしめているだろう
か、と思いました。
 例えば、金光教にご縁を頂いたと言うならば、お互いが、「金光教の信心をすれ
ば、こういう助かり方になります」という、金光教的助かり方に入っていかなけれ
ば嘘でしょう。それが、天地書附にある、「おかげは和賀心にあり」という実証を
あげて、はじめて金光教にご縁を頂いた価値を価値たらしめられるわけです。合楽
で言うならば、初代が「成り行きの中に見える金光道」とおっしゃったように、成
り行きの中に見える幸福道です。この「成り行きを尊ぶという生き方」の中に、間
違いなく助かっていけるという確信を、お互いが、どれだけ頂いておられるか、と
いうことです。
 私は、改めて、この度の大奥様のご入院という成り行きの中で、大奥様の信心の
偉大さに触れさせて頂きました。大奥様は、まあ、陰の人と言いましょうか、あま
り目立たない人ですから、私どもも何か、大奥様の信心というものがはっきりしな
い部分があったんです。ところが、この事の中から改めて、この大奥様の助かり方
というものは、大したものだなあ、と思わされました。しかも、昨日も申し上げま
したように、何かこう大きな動機とか、何かがあって豹変するというのじゃなくて、
いつの間にか、本当にいつの間にか、ここに見えた、ここの助かりの世界に入って
いかれたのです。
 例えば大奥様は、真夏でも、さらしを巻いて、足袋を履いて、休まなきゃ眠られ
ないぐらい、それこそ病み袋というぐらいに、体が弱かったんです。それが、どう
でしょうか。大奥様が10年に1回ぐらい休まれたでしょうか。本当に病気知らず
です。そして、大奥様の実家になる、この鶴谷家というのは、時々私が申しますよ
うに、もう本当に悲惨な家柄です。それこそ貧争病の塊のような鶴谷家です。それ
が、大奥様を見ると、運命改善、体質改善、そして性格改善までおかげを受けられ
た見本だなあと、改めて思うんですね。
 これは、いつもの事ながら驚くのですが、例えば、今度、長女が、結婚のおかげ
を頂きましたけれども、本当に神様の計算というのはこんなだろうか、と。出るお
金と入るお金が、極端に言うなら、一円と狂わないんですから。これは、恵城の時
もそうだったんです。あの時などは、この際、もうオープンでいきましょうと言う
て、出席したいという人は、全部受けました。披露宴の席が、444席あったんで
すが、申し込みが、丁度、444名だったんです。ですから、相当、出費もさせて
頂きましたが、それがもう見事に、入ってきたお金と、出すお金が一緒でした。そ
れこそ、文男先生が言う「使うて減らぬ金百両」というのは、こんな事だろうかと
思います。
 だからこれは、合楽教会だけに現れることでしょうか。いや、そうじゃありませ
ん。これは今、私達のこの成り行きを尊ぶということの中で、そういう体験を皆さ
んそれぞれが頂いておられます。私は、「妙賀栄える富貴繁昌」というのは、嘘じ
ゃない、「おかげは和賀心にあり」というのは、間違いない、と確信させて頂いて
おります。
 ところが、実際は、教祖様も、そこ辺りに気付かれるのは、明治4年頃なんです。
そして、あの明治6年の「天地書附」というようなことに繋がっていかれるのです。
教祖様の信心のし始めというのが、例えば四十二歳の大患と致しますならば、教祖
様も十何年経っておられます。だから、今日、何人かのお届けを聞かせて頂きなが
ら、お互いが、信心の目が覚めるまでには、時間がかかるんだなあ、と思いました。
「ははあ、信心は、もうここを改まっていく以外にない」と気付くまでに時間がか
かります。「おかげは和賀心にあり」と気付くまでに、お互いが、時間がかかるん
じゃないでしょうか。それが出来たら、確実に、信心の積み重ねが出来るようにな
ります。
 どうでしょうか。お互いが、こうやって長年信心させて頂いて、金光教にご縁を
頂いた、せっかく合楽にご縁を頂いた価値を価値たらしめておるでしょうか。それ
には、「信心とはここだ」と、一つ目が覚めなきゃなりませんね。 どうぞ。


平成12年5月7日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第19節 金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。


時間空間を問わない自由無碍の働きを現わして下さるのであるが、私共は一歩でも
金光大神に近づかせて頂かねばなりません。金光大神も楽、私どももおかげの早道
でもある。
それには、ぎりぎりの自分を発見し、そこからの出発であり、一念発起でなければ
なりません。
「四角四面の鏡の中に入れられた蝦蟇は、自分のきたなさ、あさましさに苦しみ、
タラリタラリと脂を流した。其の脂を練り上げたものが切傷の特効薬となる」これ
はガマの膏売りの口上である。
私共も教えの鏡をみたら、自分のきたなさ、あさましさがうつし出されてくるので
ある。
それが自らの発見ともなるのである。           (昭45・7・1)


 最近、私の願いの中にありますことは、せっかく私どもが金光教にご縁を頂き、
教祖金光大神様によって開かれたお道でありますから、そのお道に則った助かり方、
金光教的助かり方をさせて頂きたい、ということです。今、いろんな角度から、い
ろんな視点から、そのことを求めさせて頂いております。そこで大事なことは、初
代がおっしゃるように、教祖金光大神様の信心の神髄に触れて、というところです。
本当に、教祖様が、「そこそこ」と納得して下さるようなところに触れていきたい。
これが私の切実な願いであります。そういう中に、今日のこの御理解を頂いたので
す。
 例えば教祖金光大神様との接点というのは、幾つかあるような気がします。この
御理解は、その中の1つだろうと、思います。それは、自分を見極めるということ
です。どうでしょうかね。これは、よく信心が早分かりしたり、とんとん拍子で信
心が出来るタイプの人があります。けれども、そういう人は、すぐ元の木阿弥に戻
るんです。「なぜだろう」と思います時に、結局、土台がないんです。その土台の
1つが、今申します、自分を見極める、「もう最低の私なんだ」と見極めることで
す。初代で言えば、「吾、無芸無能無才にして」、「神様のおかげを頂かなければ
立ち行かん」というところです。
 私が、自分というものをそれこそ発見させて頂いたのは、初代のお手代りをさせ
て頂いた時です。ですから、お互いがせっかく信心させて頂き、信心の積み重ねが
出来るためには、やはり一度は本気で自分を見極めて、本当に無芸無能無才という
ところを分かることです。そうでないと、ちょっと調子がいい時には、信心が有り
難うなる、ちょっとは積み重ねが出来ているようだけれども、また元の木阿弥とい
うようなことの繰り返しをするようですね。
 けれども、自分を見極めるということは、恩恵条件がないと、なかなか出来るも
のではありません。それで初代が、「難儀という鎧兜をつけておる時こそ、本気で
自分を見極める時である」とおっしゃるのです。難儀という鎧兜を着けておる時は、
やっぱり下を見るしかありません。そして本当に、「あった、あった、おかげが受
けられんはずだ。何とだらしのない、何とずるい、何と汚い私なんだろう。本当に、
口先だけ、真心はない、実意はない、辛抱力もない」と、そういうことが、一つ一
つ明らかになってまいります。
 そして、私が有り難いと思いますのは、実はあなたのその欠点が、本当は神様と
の接点なんだ、ということです。いや、本当にそうですよ。あなたの性格的欠点が、
本当は、あなたの素晴らしい、あなたしか持たない図柄になるんです。ただ、それ
を研いていないだけです。研いてごらん。必ず、自分の性格で良かった、というこ
とになりますよ。
 私にしても、「こんな自堕落な私でよかった」と、最近、本当に思うんです。だ
から、縋らずにおれない。だから、成り行きを放せない。確かに、あなたの欠点が
神様との接点です。これは、私が以前、神様から頂きましたことですが、「その人
の長所に、めぐりが付きやすい」と。そうですよ、皆さん。これは、私の得意分野、
これは、私が出来る。そこに、神様が、はずれなさる。めぐりが付く。そして、あ
なたの欠点に、神様が寄り添い給うということを、これは10年ぐらい前ですか、
頂いたことがありました。今、自分探しとかいうのが流行ってますけれども、その
自分というものを発見できないのです。自分の欠点が個性になるわけですが、その
自分の個性が、発見できないのです。
 過去のいろんな宗教は、上から人を助けた宗教だと思うんですね。ところが、私
は、金光教というのは、下から、平人から人を導き、助けられた宗教だと思います。
それが、明治8年の例のくぼみの絵図になっておると思います。教祖様は、平人か
ら神になった人ですよ。また、私ども、もそうです。力があるから、人より優れて
いるから、お取次の御用をしておるのじゃありません。特に初代がよく言われたよ
うに、そういう助かり難い内容があり、めぐりが深いから、黒衣を着せて頂いてお
るのです。
 教祖金光大神様とチャンネルを合わせる一つの手立てとして、本気で自分を見極
めることです。それが、初代が言われる謙虚ということになります。この謙虚とい
うことに、一つ今日は、焦点を置かせて頂いたら、「来てくれというところへ金光
大神が行ってやる」という体験を頂くことが出来ると思います。 どうぞ。





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