金 光 教 合 楽 教 会 の 御 理 解

平成12年2月13日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第26節
 信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れが
  いろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。


「生命の欲求」と頂きました。
いのちが求めるやむにやまれぬもの、という事でしょう。
信心は私の生命ですといえるまで信心を高めたい。
教祖さまが極められた御教え『日に日に生きるが信心なり』という本当の意義がだ
んだんわかってまいります。
                           (昭56・7・17)


 今日は十三日会に併せて信徒総会という成り行きを頂いております。先程、信徒
会長から、今日のしおりを見せて頂きました。もう皆さんのお手元に配ってあると
思いますが、その表紙に、『なりゆき』というのを持って来ておられますね。そし
て、メインテーマは、「私の合楽理念の確立」ということです。これは、今年の布
教50年祭に向けての、私達の取り組みのテーマであります。
 「私の合楽理念の確立」。そして、今日の御理解第26節を頂きながら、「ひと
り信心せよ」というのは、間違いなく、この私の信心の確立なんです。ですから、
この合楽理念の確立ということを、もっと具体的に言いますと、成り行きの確立で
しょう。今日のミニ御理解で言いますと、「成り行きは私の生命ですと言えるまで
信心を高めたい」ということになると思うのです。
 今、四国のある方が、「お書き下げを」と言われましたから、「成幸」と書かせ
て頂きました。これはもう2、3年前に神様から頂いたお知らせですが、「成り行
き」というのを、成るという字に幸せと書いて、「成幸」と頂いたことがあるんで
す。これは、『広辞苑』にあるんだそうですが、成り行きというのは、「物事が移
り変ってゆく様子や過程」ということだそうです。いや、どういう過程かと言うと、
幸せに成っていくことのための成り行きなんです。一つ一つの成り行きが、私達が
幸せに成っていく過程なんです。
 ですから、そういう意味合いで、私達が、「もうこれは要らん」とか、「こげな
ものは好かん」と言うて、成り行きを押し遣っているから、結果が、ちぐはぐちぐ
はぐなことになってくるわけでしょう。そして、私が今、神様から頂いたのが、
「山は雪 ふもとは霰 里は雨」です。ところが、ここで止まってしまったんです。
これには次がありましたよね。ここで終わっているということは、後の半分の答え
は、その方が、出さなくてはならないのだろうと思います。「山は雪 ふもとは霰
里は雨」、これは、なぞなぞですね。そして、後半が、何でしたっけ。「いずこも
同じ 神のふところ」です。この後半の部分がないなら、この教歌は、意味がない
んですね。「はあ、寒い寒い。どうして、このように冷たい、こんな辛い思いをし
なきゃならないのだろうか」と言うんじゃなくて、それも神のふところと頂いてい
くことです。まだその方は、その答えを出しとらんということになるわけでしょう。
 今日の十三日会に併せて、総会を頂き、そしてこの26節を頂いて、これは皆さ
ん、どうでもここまでは、ここの一線上までは出てもらいたいということじゃあり
ませんか。
 先程末永道彦先生が、初代の昭和59年10月18日の、月例祭における御教話
を持って来て下さいました。「合楽の信心は、もうこれ以上高める必要も、深める
必要もない。もうここに極まった」という御教話です。「例えば、富士山頂をだん
だん極めてまいりましたら、空気が希薄になって、人間が生きるのに苦しい世界に
なるのです。また、信心を掘り下げた上にも掘り下げて、夏は氷のような水が、冬
はお湯のような温かい水が、しかも良質の水が、渾々と湧き出てくるところまで掘
り下げてまいります。その水脈に当たった。それをまた掘り下げようとすると、今
度はまた、どういうところに突き当たるやら分からないのです。だから、人間が幸
せになるという意味では、もうこれ以上深める必要も、高める必要もない」という
御理解を、私は先程聞かせて頂きました。また後で皆さんにもビデオを見て頂こう
と思いよります。
 「本当に、そうなんだなあ」と思います。ですから、もうここを極めるしかない、
これを確立して頂くしかない、ということです。初代も、その中で、「何十年間、
あらゆる角度から、御理念に伴う生き方が説かれてきた。教えられてきた。そこで、
私どもが、これから信心を求めるというのは、今まで習ってきた信心を、つぶさに
一つ一つ自分の血肉にしていく以外にない。他に新しいことを覚えたりしては、か
えっていけない。教えを忠実に守って、そして、おかげを頂き現していくというこ
とだね。(略)目の粗かったところを、もう一遍、綿密に頂き直して、御理念を血
肉にしていく修行以外にはない」と言うておられます。それはもちろん、ここにあ
りますように、「日に日に生きるが信心なり」ということでもあります。私達が生
きるということの中には、雨も降ります、雪も降ります。けれども、365日丸々
小春日和ということは絶対ありませんから、それも神のふところと頂けるところま
では、一つ確立して頂きたいと思います。今日はそういう神様のメッセージを頂い
ての、十三日会並びに総会の内容にならせて頂きたいと思います。どうぞ宜しくお
願い致します。


平成12年2月7日 朝の御理解(親先生)


御理解第66節
 人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言
  わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時
  には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。


 神ながらに生まれ
 神ながらに生き
 神ながらに死ぬ
 信心者の一生ハ
 かくおかげを受けたいものである
出物腫物所きらわずと言うが、信心して居れば所をきらわして下さる神さま。
生きるも死するもおくり合わせを願え。              (昭52・7・18)


 「神ながら」というのは、日本神道の言葉だそうですけれども、今、広辞苑で引
きましたら、すごい意味があるんです。「神の御心のままで人為を加えないさま」
と。こういう生き方が、日本の伝統的な思想の中に、やはりあるんですね。けれど
も、これとても実際、神様のみ心というのが、果たして分かっているだろうか、と
いうことでしょう。それが分かりませんもんですから、言うなら聖人君子のような
生き方を目指す、ということになるんだろうと思うんです。
 「人間は勝手なものである」と。まず、ほとんどの人が、そうじゃないですかね。
わがまま勝手とまではいかなくても、自分で計画して、自分の才覚で生きています。
『一切神愛論』の帯紙に「よりよい生き方はないものか、より助かることのできる
道はないものかと尋ねつづけ、さまざまに迷い、さまざまに苦労し続けて、はじめ
てここに、その助かり方と生き方を、確信と喜びをもってお話しできることを、ま
ず感謝いたします」と言うておられます。私は、初代という方は、宗教者であり哲
学者だという感じがするんです。「なぜ」「どうして」というのが、常に初代の中
におありになったようです。それが、「本当からより真実へ」というような言葉に
なってくるのです。どうしても、宗教というのは、「これが本当」ということにな
りますと、それこそ頑迷になって、その世界を壊せないで、いよいよ排他的絶対性
になっていく、というパターンがあるんです。ところが、初代の場合は、より真実
の事があったら、次々と壊していかれてますよ。だから、私のことを破壊主義者と
言いますけれども、初代に比べて、私のなんかは、本当に幼いです。
 例えば、初代の御霊観なんか、とんでもないことですよ。まず、ほとんどの宗教
が、いろんな御霊観を説きますが、「御霊の働きは天地のトリック」だとおっしゃ
るのですから、とんでもない爆弾発言なんです。あの表行全廃だって、あそこまで
すぱっと切り捨てられるというのは、とんでもない決断だと思います。初代は、よ
り真実ということになったら、すぱっとそこに突入して行かれる。けれども、どう
も私達の場合は、その潔さがないですね。例えば、私が、拝礼3回と成り行き日記
のことを言っていますが、それを行じる人は、少ないです。
 先日、恵城が、「お父さんの生き方を見よると、初代は、無計画の計画でしたが、
お父さんは、計画の無計画ですね」と言いました。そう言われてみると、私は申歳
ですから、何でも私なりに一生懸命、組み立てるわけです。ところが、始めました
ら、次々と神ながらに壊されていって、今日のような形になるのです。ですから、
結論しますと、どちらも神ながらな生き方をしてるということでしょう。だから、
私のような性格でも、初代のような性格の方でも、「成り行きに任せた生き方」と
いうことが、神ながらな生き方ということになるのです。それは、「成り行きの中
に生まれ、成り行きの中に生き、成り行きの中に死ぬ」ということです。
 今までは、何が神様の心やら、分からなかったのです。そして、初代が、「成り
行きが神の働き」と見極められたのです。これも、大変な発見だと思います。「成
り行きが神の働き、神のみ心そのままなんだ」と。今日の成り行き、今日の人との
出会い、今日のいろんな事柄との出合い、それが、神様との出会いですよ、と。だ
から、その成り行きを尊ぶということが、そのまま神様を大切にするということに
なりましょうが。こんなに神ながらな生き方はないですよ。そういう意味で、初代
は、この成り行きを尊ぶ生き方に関して、絶対の道だとおっしゃいました。ですか
ら、いよいよ、私どもの生き方が、神様の心を心として、もっともっと神様に接近
していかなければなりません。
 初代の偲草として、『和賀心を永遠の生命として』という御本を出させて頂きま
した。これは皆さん、すごい内容ですから、たびたび読んで下さい。その中に「修
行のバランス。させられる修行、自ら求めての修行。バランスをこわさぬように。
私はこの五、六日、時間を聞かぬ修行をしております。寝ながらでも修行はあるも
のです」(昭和57年11月3日 病院にて)というお言葉が、載っています。私
は最近、この意味が、ようやく分かったような気がするんです。「させられる修行」、
これが、成り行きを尊ぶということです。そして、「自ら求めての修行」、これが、
朝起きです。朝起きは、身を削る唯一の修行ですよ。修行のバランスがいいから、
初代のような、人間味が豊かであって、何とも言えないお徳の香りが漂われるよう
な和賀心の権化になっていかれたのです。だから、このバランスをとることです。
それには、「成り行きを生命として」「朝を生命として」というのが、一番バラン
スがいいんじゃないかと思いますね。 どうぞ。


平成12年2月6日 朝の御理解(親先生)


御理解第39節 此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。


お道の信仰による行の目的は神に向かう神に近づくにあります。家業に精を出して
居れば修行しているような思い方をしてはなりません。
家業の行の中に真に有難し、又人が助かることさえ出来ればの精神が育ってゆかね
ばなりませんが、なかなか難しいことであります。
そのような神心、奉仕の心が頂ける為にやはり火の行も水の行も、又心行も必要で
あります。
すべての行はそこが体得出来て家業になり、はじめて「家業即行」「行即家業」と
いうことが出来るのです。
本来、修行の眼目は己を乱さないというにあります。火にも焼けない、水にも流さ
れない自分を修めてゆくのです。            (昭45・7・21)
 ※神に向かうための形の行も心の行も、行という行がすべて大切であります。そ
  の精神を体得しての家業になりますと、教祖の神意、いわゆる家業の業の行の
  意味がわかります。


 今、教祖様の御事跡を辿らせて頂き、またいろいろな角度から勉強させて頂いて
いますが、私は、今日の御理解などは、金光教が、もっとお道の信心はここに極ま
りましたというような、明確な打ち出し方をしたらどうだろうか、と思います。金
光教の信心は、家業の行一本ですと。ところが、今までは、家業の行の内容という
ものが、家業に真面目に取り組むとか、実意丁寧に家業を務めるとか、誠心誠意生
活をするというような、道徳的な程度にしか理解していない感じなのです。
 『お知らせ事覚帳』を見ますと、教祖様が、よくぞあれだけ赤裸々に書き残して
下さったと思うんです。本当に不成就物語ですね。私達が生活をするということの
中には、これが火の行だろうか、これが水の行であろうというようなことがありま
す。教祖様は、その問題を通して、自分の力になさり、その事によって自分が改ま
り、磨いていかれたお方です。ところが、教祖様は、「信心とは本心の玉を磨くも
の」「信心は日々の改まりが第一」とおっしゃっていますが、どうやって磨かれた
か、改められたかは、おっしゃっていないのです。それには、大坪総一郎のご信心
を下敷きにすると、そこがはっきり見えて来るのです。
 私がカトリックの司祭様にお会いした時、その方は、独身を通しておられるので
すが、「家庭を持ちますと、どうしても煩わしい問題を伴います。それよりも、一
途に神様の御用をしたい」と言われました。ところが、家業の中の、その様々な煩
わしい問題を味わわれたお方が、教祖様なんです。
 今日のミニ御理解の中には、矛盾を感じるところがあります。「そのような神心、
奉仕の心が頂ける為にやはり火の行も水の行も、又心行も必要であります」という
ような表現をしておられます。なぜかと申しますと、これは、昭和45年7月21
日のミニ御理解です。初代が、表行全廃を打ち出されたのが、昭和49年ですから、
こういう表現になってるのです。今の合楽の信心の中で唯一、表行的だと思うのが、
朝参り、朝起きです。朝、それこそまだ人が寝ておる時に、起きるというのですか
ら。けれども、身を削るという意味では、この朝起きは、人間の我情我欲をコント
ロールする唯一の修行です。それこそ、食べたい物は食べる、眠たい時は眠るでは、
自堕落に陥りかねません。確かに私は合楽の中では、そちらの方が強くなっていっ
た気がします。教祖様は、実意丁寧神信心をもって家業の行をなさったお方です。
今まで、合楽では、神信心がなされてきた感じです。ですから、だらしない私ども
としては、実意丁寧というものも同時に身に付けていかなければならない。ですか
ら、今年の実践目標として、「朝を生命として」「成り行きを生命として」と掲げ
ているのです。
 昨日の正奉仕の人が、「ようやく成り行きが見え出しました」というようなこと
を書いています。皆さんが「成り行き日記」をつけられ、拝礼3回を貫かせて頂く
なら、絶対、成り行きが見えてくるはずです。成り行き日記をつけることによって、
成り行きの観察力が出来てきます。言うならアンテナを神様に向けて、アンテナを
立てることになります。ですから、今まで映らなかったものが映るようになります。
成り行きを尊ぶということが、神信心というなら、朝を生命としてということが、
実意丁寧で、私達のだらしのなさを取っていく、唯一の行だなあ、と今日は実感さ
せて頂きます。それと同時に、いよいよ教祖様と初代に「よくぞこういう道を明ら
かにして下さいました」とお礼を申し上げずにはおられません。例えば、私に、司
祭様や神父様のような生き方をしろ、と言われるならば、出来ません。ところが、
朝を生命とする、そして成り行きを尊ぶということならば、生身の人間でも、凡人
でも出来る行です。
 皆さん、『お知らせ事覚帳』をもう一遍、その眼で見て下さい。どなたでしたか、
「『一つお知らせ』と書いてあるところを、『一つ成り行き』として読んでみると、
成り行き日記になります」と言われた方がおられました。まさに、そうですね。
『お知らせ事覚帳』は、成り行きの実験実証日記になるのではないでしょうか。本
当に、そういう意味で、このお道にご縁を頂いた私達は、お道の信心の拠り所、助
かりようというものを、もっと実証させて頂きたいですね。 どうぞ。


平成12年2月5日 朝の御理解(親先生)


御理解第3節
 天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、
  氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、
  前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子
  におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、
  神ありての氏子、上下立つようにいたす。


親のふところにありながら親のふところにあることを知らず、不安焦燥の生活をな
して居る状態は、天地金乃神として、又親として、みるにみかね給うところから、
生神金光大神を差し向け、親子共々の繁栄、幸せを願われたものである。
その不幸の第一は、人間氏子の見当ちがい思いちがいの生活が其の原因をなしてお
ると指摘し、メグリの根絶を願われたものである。
どこに難儀のもとがあるかを知り、親のふところにある子供のような安心を頂かね
ばなりません。
                           (昭44・7・20)


 大体は他の宗教については何も言わない金光教なんですが、一番新しい金光新聞
の記事に、「現代社会における本教の役割 宗教不信&・拭する信心実践」とい
うことで、今日、ニュースで随分世間を騒がせてます問題をちょっと扱っています。
それを読ませて頂いても、今、宗教が本当に問われておる時代だと思うんです。で
すから、これは、皆さんも、たびたび確認しなきゃならないと思いますことは、
「宗教というのは一体何なのか。何のために、お互いが信心するのか。また、何を
与えるのが宗教なのか」という、やはり確認時代だと思うんです。
 オカルト的宗教が出てくるのは、既成宗教が、生き生きとした救済力をなくして
おるから、と言えると思います。特に新興宗教やオカルト宗教というのは、うちの
宗教に来れば、癌がよくなります、すぐ金持ちになります、というようなことを言
い出します。ですから、目の前が真っ暗な状態、閉塞された状態の時は、「溺れる
者は藁をも掴む」じゃないですけれども、どうしてもこちらの方に引かれてしまう
のですね。ですから、お互いが平穏無事な時に、「一体信心とは何を求めていくの
か」としっかりと見極めをしとかなければなりません。結論しますと、今日の御理
解3節にありますように、目先目先の助かりじゃない、末々の安心です。壊れない
助かり方です。
 昨日、神愛会でしたが、北村先生が、初代のテープを聞いて合楽に来たら、その
内容が、「私の30年間の信心を一口で言いますと、一切を修行と受け抜いて来ま
した、これが私の信心の全てです。そして、一切が神愛と分からせて頂きました」
というようなことを話されたらしいです。これは、ある人の結婚のお届けの時に、
初代が御理解しておられたことですが、私は、大変厳しいなあ、と思うて聞いてお
りました。「あんた達が結婚するということは、丁度、山登りをするようなもんだ
よ。決して平坦な道じゃないよ」と。確かに、結婚と言うたら、何かユートピアに
住むような錯覚をします。けれども、結婚をし、夫婦になり、子供が出来ると、本
当に山登りですよね。私たちが生きていくということは、間違いなく難儀の連続で
す。生きておる間は修行中です。ですから、問題は、その難儀の正体をどう見極め
るのか、その難儀をどう頂くかです。「養素拝山」じゃないですけれども、一切を
私が大きくなるための材料だ、と頂いたら、どうでしょうか。これだったら、壊れ
ようがないでしょう。難儀がある度に、右往左往したり、心配したり、悩んだりせ
んでいいことになります。金光教が、今こそお役に立つ時なら、これをもって金光
教を現わしていかねばなりません。今、教祖様の勉強をさせて頂き、三大宗教を知
らせて頂いて、そして、今、科学の世界と言いましょうか、そういうことを分から
せて頂けば頂く程、改めて、この御理念の凄さを思い知らされ、御理念の真実性を
確認させられます。そういう意味で、信心のない学者さんの方が早く、御理念を立
証されるのではないでしょうか。
 昨日、北村先生が持って来た本にも、天地自然の働きというものは、この成り行
きに従って行けば、一番良いというようなことを言ってるんです。ところが、そん
なことを分かった学者さんが、自分の家庭の中で、例えば、子供が登校拒否したり、
奥さんからヒステリックに言われたりしたら、それは有り難く受けられないのです。
それを神様の働きとは頂けないのです。神様の声と聞けないのです。本当は、ここ
が大変な味噌の所なんです。そうして見た時に、どうでも、この合楽理念だけは、
きちっと分かってもらわなければなりません。
 今、改めて合楽理念講座を修行生の先生が、また松栄会では、会員同士が、講座
をする順番を決めました。今、修行生の先生にしてもらっているんですけれども、
十二分に分かっておるつもりでも、先生達ですら、30パーセントしか伝えられて
ないです。最近、私が申しますように、宗教というのは、何千年前の宗教がそのま
まなんです。なぜなんでしょうか。科学とかは、確実に積み重ねが出来てきたんで
す。宗教は、なぜ積み重ねが出来なかったんでしょうか。いわゆる体系化が出来て
きてなかったんです。信心を育てるためのカリキュラムがないんです。ところが、
これが、合楽の場合はあるんです。実際皆さんの中で、「ああ、ここまでは成り行
きが分かった」という積み重ねが出来ていましょう。何とか工夫して、ここまでは、
全員に分かってもらいたい。より神様の心を心として伝えていける信心をお互いが
頂きたいということですね。 どうぞ。


平成12年2月4日 朝の御理解(親先生)


御理解第55節
 賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれ
  ぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとう
  なってくる。


おかげおかげの信心では有難い心は育たない。
本心の玉を研くことが信心だと悟って信心すれバ、自然と有難くもなれ、信心の位
もついてくる。                    (昭57・7・15)


 信心の位とは、お道の信心でいうならば、御神徳を頂くということでしょう。だ
が、この御神徳を頂きたい、と目指す人は、確かに少ないと思います。今日のミニ
御理解の中で、初代が、「おかげおかげの信心では」というように、おかげを2回
続けておっしゃるところに、何か感じるんです。誰でもが、まずおかげ信心からス
タートします。けれども、それで信心が終始しているのです。
 最近、私の宗教観の中に、宗教はおかげを売り物にするべきではない、究極的助
かりを与え得る宗教でなければならない、というものがあります。初代が、面白い
表現をしておられるのに、例えば、漢字の幸せという字は、上から読んでも幸せ、
下から読んでも幸せ、それに土を書いて二を書いて土と書いてある。ですから、壊
れない助かり、幸せを頂きたいなら、土の心に尽きる、と。私は、御理念に基づく
なら、120%、そういう世界に住むことができる、と思います。また、そういう
御教導を頂いておるわけです。けれども、御神徳を売り物にする、またはおかげを
売り物にするというなら、間違いなく、おかげを売り物にした方が売れるのです。
そこに、教祖様のジレンマがあり、初代のジレンマがあり、私のジレンマがあるの
です。
 これは松尾さんところの娘婿になる人で、神様が、初代を大黒様と例えられた、
ということも知らない方の、十年ぐらい前のお夢です。アメリカに、その大黒様が
行かれるんだそうです。そして、お道開きをされます。こちらの西海岸では、大黒
様がどんどんおかげを授けられるのです。そうしたら、大変な人達が集まって来ま
すが、だんだん皆が堕落していく。それをご覧になって、「こんなことではいかん」
と大黒様が今度は、東海岸のニューヨークの方に行かれて、和賀心の種を皆さんに
与えられる。けれども、誰ひとり買わないそうです。ところが和賀心の種が芽吹い
て、そして大木になり実を実らせたら、「はあ素晴らしいです」と言うて、人がだ
んだん集まってくるというお夢を頂かれておるんです。
 これは確かに皆さんの中に、金じゃない、物じゃないというような認識が、だん
だん出来てきたと思うのです。けれども、「御神徳が頂きたい」「和賀心になりた
い」という迫力です。「金の亡者」と言いますけれど、初代は「私は、徳の亡者だ
った」と言われましたよ。金光教教典の340ページを広げて下さい。そこに、徳
永健次といわれる方の伝えが載っております。ここを読ませて頂き、教祖様の言わ
れる生神なら、誰でもなれるのだなあ、と私は今日実感してるわけです。ところが、
私どもは、生神と言えば、スーパーマン的な千里眼を持つ、雲の上の人をどうして
もイメージするわけです。そうじゃないです。三味線を弾いて、都々逸を唄われる
ような生神様ですよ。テレビゲームをされるような生神様です。ですから、そうい
う意味で、本気で神になってみたいと思ったんです。そうしたら、今日この御理解
を頂きました。
 私は、昨日は面白い成り行きの中で、東山魁夷(ひがしやまかいい)の絵を見に
行かせて頂きました。凄いですね。私は、これを見せて頂いて、結局、自分を磨き
上げるということだ、と思いました。自分の絵が書けるように、この人も、やはり
試行錯誤してあるのです。試行錯誤しながら、自分の世界を自分の絵を確立してお
られる。ピカソだってそうでしょう。だから、自分を磨き上げるということが一番
なんです。そうしたら、例えばよく「野球の神様」と言いますように、誰でも「何
々の神様」になれるんだなあ、と思うんです。自分を磨き上げることです。今日の
御理解で言うならば、「本心の玉を磨く」ということになります。
 いよいよお互いが、信心のお育てを頂かねばなりません。これも、私は、金光教
の信心の独特なものと思います。信心が、一段一段のぼっていける。これは教祖様
の信心を辿ってみれば、そうです。御神号が一段一段変わっておられます。いろん
な宗教の教祖の場合は、生まれながらに神であったり、または、ある日突然、神に
なるパターンですけれども、金光教祖の場合は、そうでないのです。先ほど読ませ
て頂いて、特に感動しましたのは、「私は土を掘る百姓だ」という件です。あれは、
謙遜ではない、と思います。教祖様は特別という見方をすれば、教祖様が悲しまれ
ると思います。私達と同じ凡人だと思います。そして、その凡人が、神になられた
お方です。しかも、生身を持ちながら、その身そのままに神になられたお方です。
ですから、誰でも、そうなっていけるわけです。そのためにも、まず自分の中にあ
る神様を発見することです。そのためには、磨くことです。この成り行きをもって
研き、この事柄によって改まっていくということをしなければ、第一、有り難うな
れません。本当に、自分で自分の心が拝めるような、そして「御神徳を頂くという
ことは、こんなことか」ということを皆さんが体験して頂きたい。そして、例えば
ニューヨークの人達が、和賀心の実を憧れて見ておるようなおかげを、そういう実
証を本気で頂きたいと願います。 どうぞ。


平成12年2月3日 朝の御理解(親先生)


御理解第30節
 神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない。


「主従三世」と言うが、主人に対する恩愛の情、従者に対する憐憫の情あって、は
じめて成り立つ言葉だと思う。
おかげを受けることによってはじめて、神を知り神を信ずることになる。
神の大恩がわかればわかるほど神恩報謝の心がつのる。
神に信じられる人々は、この神恩に応えつづける決心のついた人達である。
                           (昭51・7・13)


 私どもと神様との関係は、どういう関係でしょうか。これは、めいめいの信心の
段階でございますから、めいめいで確認して頂かなければならないと思うのです。
例えば、教祖様と天地の親神様との関係は、「恐い」という時代がおありになった
し、「優しい神様だなあ」という時代がおありになりました。それでも初めは、ま
だ「よそよそしい関係」ですよね。それから、今日のミニ御理解にありますように、
「主従の関係」というのもあります。また、「親子の関係」というのもあります。
初代は、よく「夫婦の関係」で説かれました。これは初代の実感だったと思うので
す。
 そこで、思うのですが、例えば、親先生に親切にして頂いた。いわゆる情で、そ
の関係が成り立つ。また、霊験奇跡的なおかげを頂いて、「有り難い神様だなあ」
と。しかし、そういう優しい、情の深い先生がいなくなったら、どうなるでしょう
か。霊験奇跡にしても、そう滅多にあるものではありません。そういうものを信じ
てきたがゆえに、根拠性のない信心になってきたのだと思うのです。宗教というも
のは、信じる世界だと言われますが、誰でもが出来る信心という意味で、「信じる
世界」から「確認する世界」になるべきだと思います。
 先日も、箱崎教会の佐田先生が、お連れして来て下さったんですが、箱崎教会の
ご信者さんの息子さんが、カトリック系の神父さんになっておられます。その方が、
もう70幾つで、やっぱり独身を通しておられるのです。けれど、あそこまでのこ
とを貫かれたら、ああいう品格といいましょうか、実意さというものが出てくるん
だなあ、と思うようなお方でした。初めて本音の部分で、忌憚なく質問もさせて頂
きましたが、それに的確に答えて下さいました。その中で、キリスト教と認めるか、
認めないかの基準は、イエス・キリストを神と認めるか、認めないかだとおっしゃ
いました。それで、先生に申し上げました。「生まれた時から神ということになる
と、何かポーンと、イエス・キリスト様が外れてしまわれます。人間イエスが神に
なられた、ということの方が、私達にとっては、イエス・キリストを身近に感じる
ことが出来るんですが」と申しましたら、「いや、これだけは譲れません」とおっ
しゃってましたね。
 今日の御理解の、次のミニ御理解の中にありますが、この方は、本当に「聖人君
子」という感じがするんです。ちょうど、脂身のない、ヒレ肉(牛や豚の背中から
腰にかけての上等の肉)のような感じがするんです。私は、初代を思います時に、
例えば、網の目状に脂が入っている、霜降りのお肉ですね、私は、初代の信心に、
そういうものを感じるんです。これは、それぞれの好みでしょうけれども、特に私
達のような凡人にとりましては、初代の信心のご内容には、ほっとする部分があり
ます。ですから、「清濁一如」というのは、すごい世界だなあ、と思うのです。
 昨日、合楽で生活させて頂いております者全員に集まってもらって、私の思い、
また、これから合楽教会が目指そうとしていることを、聞いて頂きました。子供達
の顔を見ながら、本当に合楽での生活は、自然になされているなあ、と思いました。
けれども、今まで野方図に育ててまいりました。これも一つの過程だったと思うの
ですが、例えば、学校の成績が悪い方が、いい人間のように思っている傾向があり
ました。そういう意味で、合楽に、濁の部分、脂身の部分が、多くなっていってい
ると思うのです。本当に、脂身が多過ぎますと、コレステロールが溜りますよね。
ですから、私は、「本気で勉強したいという人には、どれだけでも援助しますよ」
と申しました。けれども、全然勉強する気もない、ただ親が、「世間並みに、せめ
て高校ぐらいは出したい」という程度なら、行く必要はないと思いますね。私立高
校の1月分の授業料は、南米などでは、家族が4、5人いる家庭が、1カ月間生活
できるお金です。それ以上かも知れません。
 私は、この濁の部分を取ってしまおうとは決して思いません。これが合楽の売り
物です。網の目状に程よく脂が入っている霜降りの肉が、「本当に堪えられん」と
いうところですものね。それを過去の宗教は、濁の部分は切って捨てなければ食べ
られない、というようなことで、過酷な道を歩くことになったわけでしょう。合楽
の生き方というのは、生身の人間誰でもが、「信じる」ではなく、「確認する」こ
とが出来る生き方だと思います。そして、生身の人間が、誰でも行じられる道だと
思います。そういう道を、初代が残して下さっていたのです。いよいよ、私達は、
運命共同体として、神様の大いなる願いに応えさせて頂きたいと思いますね。 ど
うぞ。


平成12年2月2日 朝の御理解(親先生)


御理解第21節
 信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中にお
  っても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯が
  なければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。


    信は力なり  力は光なり
    信により人が助かり  光は世を潤す
    現世まさに世界が闇なりの様相を感ずる
    闇夜にも等しい今の時代に
    信の力を以て  光を以て  社会に奉仕しよう
『信心せよ信心とはわが心が神に向ふのを信心と云ふのぢゃ』『氏子に信なければ』
の信を得るには、すべてのことをすべて神に祈り、神にまかせることから信が生ま
れる。
『わが心が神に向ふ』とは其のようなことである。     (昭45・7・3)


 皆さんは、こうやって、毎日朝の御理解を頂かれるんですが、どのように感じ、
どのように頂いて下さるのか。私としては、それこそ神様と私との関係の中にあっ
て、神様がものを言うて下さるような、また私の思いに受け答えをして下さるよう
な、そういう実感を頂いております。例えば今日の御理解なんか、私が昨日一日感
じ、また言うてきたことを神様が裏付けて下さるような御理解だ、と思うんです。
ですから、本気で頂こうという気にならなければ損だと思いますね。この頃、幹三
郎が「合楽の人達は、本当に砂糖壺の蟻になってます」と言うんです。それが、ど
こにその違いがあるか、ということです。私は、本当に成り行きに恐れ入っていま
す。問題は、その恐れ入り方なんです。ですから、皆さんが、本気で、もう少し成
り行きに対して敏感にならなきゃ嘘だと思うんです。
 これは、不思議なもんで、本当にそこに喜びます、感動いたしますと、もっと喜
ばせようという働きが続くもんです。私は、喜び下手の人間です。感性も悪いです。
その私が、これ程に感じられるようになるということが、この成り行きを頂くこと
に徹してきたからだ、と思うのです。だから、ここで言われる「信心とはわが心が
神に向かう」というのは、わが心が成り行きに向かう、ということです。例えば、
昨日、私がお取次させて頂く中で、北野の北さんが、先日息子さんに電話したら、
声をがらがらにからして、風邪をひいていた。それで、そのお願いがあった。次に
参って来た徳久さんが、喉をがらがらからして、声が変わってるわけです。私は、
本当に風邪一つが、お参り一つが、お取次の順番一つが、神様の一分一厘間違いの
ない働きの中にあるんだ、といつも思いますよ。その後に、娘さんが大変な問題を
起こした人のお取次をさせて頂いたら、娘さんのことで、何年か前に大変な問題を
頂いて、そしておかげを頂いて、今日がある人がお届けに来るわけです。だから、
私としては「おかげになるなあ」という確信をもって、お取次が出来るのです。い
や、これは、もう細かく言うなら、私の中では、ずうっと続いてるのです。ですか
ら、問題は、この成り行きに対する感じ方、頂き方、心の向け方です。
 私は、最近、この一切神愛というようなことは、とても、言葉巧みに、相手を納
得させるようなそんな軽薄なものじゃない、または、それこそ情をからめて相手に
納得させることも出来ない、と思うようになりました。だから、どうでも、それぞ
れの生命が納得いくところまでは、時節を待たなきゃできない、と思います。現代
の世の中の価値観の中にあって、一切神愛というのは、そんなに軽薄に売れる商品
じゃないです。初代がある時に、合楽の目玉商品は何か、と尋ねられました。そし
て、和賀心とか一切神愛などは、そんなに安売りしてもらったら困る、と言われて
ましたよ。私も、それを実感するんです。ですから、これは、めいめいの信心体験
で、言うなら実験実証の積み重ねの中で、めいめいの生命が納得して頂かなきゃな
りません。
 けれども、今日の御理解を頂いて、少なくとも、お互いの信心の焦点が、自分が
助かればいい、というような次元から、一つ本気でお役に立たせて頂けることに育
って頂かねばなりません。今、私の思いの中で、神様の手にも足にもなろうという
人達が、一人でも二人でも育って頂きたい、と願うのです。まずは、あなた自身が
助かってもらわなければなりませんが、いつまでも、おかげが頂きたらんごと思う
信心では、いつまで経っても、信心が堂々めぐりします。ですから、どこかで、お
互いの信心を一段上げなければなりません。
 ここで「信の力を以て、光を以て社会に奉仕しよう」とおっしゃっています。だ
から、どういう信じ方を皆さんがなさるのかです。それこそ今、テレビで話題にな
ってます、ああいうものを信じていいのでしょうか。それこそ処女受胎のようなこ
とを信じられましょうか。だから、せっかくなら、信じる根拠性のあるものを信じ
て下さいって、言ってるのです。この「成り行きは神の働き」というのは、皆さん
がその気になって実験実証して下さるなら、誰でもが信じられるようになってるん
です。その信じる力が、光になります。今日の御理解を頂いて改めて、この一切神
愛の光を灯すために、合楽教会があるんだと確認させて頂きました。そのためにも、
一つ成り行きに対して、もう少し敏感になって頂きたいと思います。 どうぞ。


平成12年2月1日 月例祭御教話(親先生)


 月例祭の前に、部屋で支度をしておりましたら、激しい腹痛を覚えまして、びろ
うな話ではございますが、下痢を致しました。今朝頂きました御理解が、「信心す
る者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも
驚くことはならぬぞ」という御理解でしたが、神様のどういう御都合だろうか、と
思います。
 先月は合楽に、かつてない凄まじい無情の風が吹き荒れました。合楽に関わりの
ある方が、何人も亡くなられました。そのピークになりましたのが、煖エさんのお
孫さんが、交通事故で亡くなられたことでした。私にとりましては、本当に鳥肌が
立つような感じの一月間でした。そして、十三日会が始まります前に、4人続いて
安産のお願いがあり、翌日の14日から、不慮の事故で亡くなった方の告別式と式
年祭が、4日続きました。そういうお働きを頂いて、「生まれることもおめでたい
なら、死ぬこともおめでたい」と、神様が教えて下さっているように思うのです。
 私は、これが本当だと思います。私は、「一切神愛」ということが、最高の真理
だと思います。絶対真理だと思います。けれども、これを今、皆さんに分かって下
さいとは申しませんが、このことが分かるためにも、お互いが、一段一段成り行き
の階段を昇らせて頂いて、「はあ、あれもおかげであった、これもおかげであった」
ということの蓄積が必要です。ここで問題になりますのは、お互いがどういう助か
り方を願うか、ということです。「いや、取り敢えず目先のこのことにおかげを頂
けばいい」という程度なら、とても理解できないだろうと思うんですね。
 私は、ゴルフをしますが、ここ1年ぐらい、教祖様の勉強から世界三大宗教に入
りまして、ゴルフに行く時間もない、また、そんな気も起こらないわけです。それ
で、今度の私の誕生日に、子供達が気を利かせて、ゴルフが出来るテレビゲームを
プレゼントしてくれました。「もう、くだらない」と思っておりましたが、まあ折
角のプレゼントですからと、させて頂きましら、面白いんです。やはり最初は難し
いのですが、続けている内にこつを覚えてきて、対戦相手に勝つようになるんです。
「あら、これは面白い」と思っていると、今度は壁が出てきます。「これはやっぱ
り難しいなあ、もう止めようかなあ」と思う頃になると、ころっと勝つんです。
「いや、これは面白い」と言って、延々とそれに浸かりました。
 それだからではないのですが、こういう面白さ、楽しさを感じさせながら、段階
的に指導できるようなカリキュラム作りが出来ないだろうか、と思います。「信心
は難しい、恐い」ということから、「いや有り難いんだ、楽しいんだ」というよう
にです。実際私は、そういう階段を昇ってまいりました。
 私が今、なぜいろんな学問に興味を持ちだしたかと言いますと、年末にテレビで、
5、6人の学者さんの座談会があってたんです。何となくその人物に惹かれまして、
ついつい見ました。そして、この学者さん達の実意さ、謙虚さ、そしてその熱意に
感心いたしました。これはもう間違いなく、宗教者より学者の方が先に神様を見つ
けますね。なぜかと言いますと、宗教は、例えば2千年前の宗教のままなのです。
進化がないのです。単発的で、特殊な体験なんですね。ところが、学問というのは、
積み重ねが出来るのです。そして学者は、初代が言われた、「一分一厘間違いのな
い働き」というものを、目の当たりに見ているわけです。人間の生命の誕生といい、
2百億年の宇宙の進化といい、とても偶然なんて考えられない、「神とまでは言わ
ないが、大いなるものがそこに働いているとしか思いようがない」というような世
界が見えているのです。ところが、宗教者は、たった1週間で、神様が人間を作っ
たり、この宇宙を作ったりするような、漫画のような世界を説いているわけです。
そんな神様が信じられますか。
 そういう意味で、よくぞ初代が、「合楽理念の実験実証」という言葉を使われた
と思うのです。これは事実、成り行きを尊ぶという信心をしている人ならば、積み
重ねが出来ているじゃありませんか。例えば、自分の子供や孫が、交通事故で亡く
なったとしたら、「何がおめでたいですか。これが神愛ですか」と、言いたくもあ
りましょう。それでも、ガリレオ・ガリレイの「それでも地球は動く」ではありま
せんが、「それでも一切は神愛です」と言える、これは合楽の大使命だと思います。
また、成り行きを尊ぶ生き方を積み重ねていけば、誰でも「一切神愛」を確信でき
るようになると思います。目先の助かり、誤魔化しの助かり、諦め的助かりなら別
ですが、本当の助かりを得たいなら、「一切神愛」ということを確立する以外には
ありません。ですから、合楽理念のカリキュラム作りを、是非したいと思います。
 皆さん、先ずは、拝礼3回を貫いて下さいませんか。せめて日に3回、「どうぞ
神様、成り行きを頂かせて下さい」という御祈念をして頂きたいですね。成り行き
に対するアンテナを立て、成り行きに心が向いてまいりますと、神様の働きがどん
どん見えるようになりますから、今日は成り行きをどのように頂いたか、「成り行
き日記」をつけてみませんか。そこから神様との交流が始まりますから。
 神様のお役に立つ人というのは、神様の思いを自らの思いとして、伝えられる人
だと思うのです。「一切神愛」という光を、点せる人だと思います。先月、合楽に、
無情の風が吹き荒れたことに込められた、神様のメッセージを、銘々に受け止めて
頂き、秋の椛目・合楽布教50年祭までには、「神様、おめでとうございます」と、
答えが出せるおかげを頂きたいと思いますね。 どうぞ。


平成12年2月1日 朝の御理解(親先生)


御理解第52節
 信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、
  少しも驚くことはならぬぞ。


真っ暗闇だから不安になる
信心の光がさす時安心が頂ける
神の偉大な働きを実感する時
そこに信心の喜びが湧いてくる
その喜びが不可能を可能にする
                           (昭57・7・12)


 私は、今朝の御祈念の時に、今までとは違う願いをさせて頂きました。それと申
しますのも、先日の私の誕生会の中で、大坪家と修行生の子供達が、舞台の上に勢
揃い致しました。皆で61名だそうですが、あれを見せて頂いて、本当に合楽の財
産だと思いますし、また、これだけの人達がお賄いを頂いて、有り難いことだと思
います。けれども、ただ生活させて頂いているだけ、というようなことでは申し訳
ないと思います。本当に、お役に立つ合楽教会でありたいと思いますし、子供達に
は、神様のお役に立つ、世のお役に立つ人に育ってもらいたい、というようなこと
を、今朝、願わせて頂きました。
 どうでしょうか、皆さんの中には、人のお役に立つことなど思いもしない、感じ
もしないという人もおられましょう。まあそれぞれの段階があっていいのでしょう
けれども、今日は、神様のお役に立たせて頂きたい、世のお役に立たせて頂きたい
という願いをもって、教典を開かせて頂きました。ところが、ピント外れのような
御理解でしたから、一体どういうことだろうかと思いましたが、改めて思わせて頂
きましたのは、お役に立つということは、単に社会奉仕をするとか、お金を寄付す
るとか、そのようなことではなくて、世の光になるということです。世の中には、
心を真っ暗にして生活している人達が、どれだけおられるか分かりません。私達が、
本当の意味でお役に立つということは、世の光になることだと思います。これは大
変大きなことのようですが、手短に言えば、人に安心を与えられる人になることで
す。その人がいるだけで、家の中が安らぐ、周囲の人が喜びを頂ける。そういう人
になることを、目指さなければなりません。
 先月は一月間、合楽に無情の風が吹き荒れました。これはただ事ではないと思い
ます。これは一体どういうことだろうか、と感じて頂かなければならないと思いま
す。私は、一番確かなのは、壊れようのない光を頂くことだと思いますね。それは、
間違いなく、「一切が神愛である」ということを確立することだと思います。今日
の御理解で言えば、たとえどういうことがあっても、「いや、おかげになるよ。神
様の御都合だよ」と言える人達が、世の光になるだろうと思うのです。私どもは、
いつかは死ななければならない運命を持っています。ですから、死ぬということを
直視すべきだと思います。死ぬということは、一体どういうことなんだろう。忌ま
わしいことだろうか、悲しいことなんだろうか、罰をかぶっているのだろうか、と。
これは、ぎりぎりを言えば、人が生まれることもおめでたいことなら、人が死ぬこ
ともおめでたいことだと思います。今の私達の信心段階では、そのように実感でき
ないかも知れませんが、私は、どうでもここまではおかげを頂きたいと思います。
 今、椛目・合楽布教50年に向けて、いろんなことが話し合われております。先
日の会合の中で、信徒会長が、「この50年祭というのは、一体何をするんですか」
というような質問があったと言ってましたが、そういう腰構えでは信心が伸びませ
ん。ですから、「50年祭に何をするんですか」ではなくて、何をしたいのか、で
す。「私は、この50年祭に、こうありたいのです、こう変わりたいのです。その
ために教会として、こうして下さい、ああして下さい」ということであれば、どれ
だけのことでもします。
 私は、合楽教会の存在価値というのは、昭和49年7月16日の朝の御理解の中
で、初代がおっしゃった通りだと思います。皆さんもう一遍、今日の御理解を基に
して聞いてみて下さい。

≪私は思うのですけれども、合楽という地名から、神様の願いを自分の身にひしひ
しと感じます。いよいよ世界の人達が助かっていく、和賀心時代を創っていく、と
いうようなおかげを頂くということは、まず、自分の家庭から、言わば苦悩、苦し
み、悩みというものが取り除かれなければならない。そういう一つの見本、手本と
いうものが、合楽にできた。それが、神様の理想であると同時に、また、私どもの
信心の理想でもなければならない。そういうおかげを頂くために、『世界の真の平
和』『和賀心時代を創る』というような、大きな働きのことのために、合楽教会は
生まれたのです。同時に、大坪総一郎もそのために生まれた。そういう確信を、最
近しきりにさせて頂きます≫

 と。今日の私の実感も、この通りです。そのために大坪勝彦は生まれ、そのため
に合楽教会はあるのです。私が助かるために私は何をすべきなのかと、一つ腰を入
れて下さい。そして本当に、お役に立つ合楽教会にならせて頂きたい。そのために、
私達が世に光を点せるほどしの信心を、どうでも確立させて頂きたいと願いますね。
 どうぞ。





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