金 光 教 合 楽 教 会 の 御 理 解

平成11年10月24日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第14節
 神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。


心が荒れてはおかげにならぬ。家の内が乱れておっては神さまがお嫌いなさる。
『おかげは和賀心にあり』『信心は家内に不和の無きが元なり』とおしえておられ
ます。
 輜重輸卒が兵隊ならば 蝶やトンボも鳥のうち
小さいことを揶揄したものでしょう。
信心も一人前になる為には心の養生、即ち大きく豊かになる稽古をする以外はあり
ません。                       (昭44・7・31)


 私は、いつも思うんですが、教祖様の助かり方の確かさです。教祖様は、信心と
は、まず私が助かることなんだ、とおっしゃるのです。それは、そうだ、と思いま
す。自分の家の中は、汚れまくっていて、世界を清めようなんて、こっけいな話で
す。そういう意味で、まずは、私の心の荒れ地荒れ屋敷をお互いが清めていくこと
であり、そして、「家内に不和の無きが元なり」と言われます、本当にそういう家
庭のおかげを頂いていかなければなりません。
 昨日、良一先生が話しておりましたが、ブラジルの信者さんで、強盗に入られて、
指輪とかネックレスとかを持っていかれて、その方が教会にお礼の電話をされたそ
うです。例えば、指輪をしたり、ネックレスをして、優越感を感じる、そういう心
まで泥棒さんに持っていって頂いたと言うて、お礼の電話がかかってきたと。本当
に、下手をしたら、合楽の人達の方が負けそうな感じがしますね。
 今、こうやってキリスト様との出会いを頂く中で、先日、『聖書辞典』というも
のを頂きました。その中に「キリスト教において、その信ずべき信仰の正否、正し
い、間違いを決定する基準が、この聖書である」と書いてありました。どこの宗教
でも、そこに教典、教義というのがあります。だから、問題は、この定規なんです。
この定規自体が、狂っとるなら、どうなりますか。しかも、聖書のこの定規自体で、
ずうっと人類二千年の価値観が定められてきたわけです。
  この聖書は、旧約聖書と新約聖書から成り立っていますね。例えば、仏教よりも
キリスト教よりも素晴らしい金光教と、初代はおっしゃったんです。それなら、キ
リスト教というのは、どんな宗教なのかを知っとっていいんじゃないでしょうか。
旧約聖書というのは、イスラエルの人達の歴史書と言ってもいいのです。日本で言
えば古事記に当たるものです。今の日本では、古事記を神話としては認めても、歴
史的事実として認めてないですよね。旧約聖書の中には、その古事記よりもこっけ
いな話が載っています。そして、その旧約聖書に基づいて、キリストが描かれてい
るのです。処女受胎で生まれるとか、しかも、どこの地で生まれるとか、どういう
一生を過ごすなんていうのが、この旧約聖書の中に全部予言されてるわけです。で
すから、キリスト教と旧約聖書は、切り離せないものです。また、新約聖書という
のは、キリスト様のご一生を描いたものですね。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと
いう、この4人の方が、キリストについてのお話を伝えてるわけです。しかもこれ
が、キリスト様が亡くなられて百年後位の話なんです。
  教祖様の立教神伝は、安政6年です。これは、教祖様自身がきっちり書き残して
下さっています。ところが、これは、明治41年、教祖様が亡くなられて、わずか
25年後の話ですが、佐藤金造先生と近藤藤守先生が、全く違う立教神伝を書き残
しておられるのです。もし金光教に、この『覚書』『覚帳』が存在しなかったら、
こんなにこっけいな教祖像が描かれておるということです。だから、キリスト教の
場合は、百年後ですから、こっけいなキリスト像が創作されてもおかしくないです
よ。そういう意味で、こんなに根拠のない聖書です。例えば、今アメリカでも、ダ
ーウィンの進化論を学校で教えてはならない州があるんだそうですよ。神様が、ま
ず男を作って、そのあばら骨で女が出来た、ということが、未だに罷り通ってるわ
けです。男尊女卑は、これからきてるんだそうです。聖書を信ずるというなら、こ
れを信じなければいけないわけですから、第二の宗教改革があっても、いいのでは
ないでしょうか。けれども、私は、イエス・キリストを否定してるんじゃないです
よ。イエス・キリスト様のことが分かれば分かるほど、イエス・キリスト様は、本
当に狂おしいほどに、民衆を愛した人です。狂おしいほどに、世の改革をしなきゃ
ならない、と思った人ですよ。当時の90パーセントの人が奴隷生活を強いられ、
家畜のような毎日で、365日を過ごしてるんです。しかも何世代にもわたって。
そこから抜け出させたい、何とか助けたいと思いますよ。ですから、キリストとい
う、そういう世の中を何とか変えたい、この人達を助けたいという人がいたことは
事実ですから。ところが、とんでもないものを作り上げたわけです。だから、そう
いうものを一遍剥ぎ取ってしまえば、素晴らしいキリスト様が出てお見えになるの
に、と思います。
 昨日、月例祭を頂きながら、私は、キリスト教だけではない、これが本当と信じ
込まされる、宗教の恐さを思いました。そういう意味で、「成り行きは神の働き」
という尺度を持つなら、こんなに普遍的なことはありません。成り行きの中で、神
様の一分一厘間違いのない働きが感じられるのですから。また、この信じ方なら、
誰でもが積み重ねが出来ます。それと同時に、この『覚書』『覚帳』の存在ですね。
こんな宝を私達が頂いておることの責任を、改めて感じます。 どうぞ。



平成11年10月17日 和賀心デー御理解(親先生) 御理解第20節  此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞 かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるが よし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。 言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。 この御理解は、信心のない者に対するものとばかりはかぎらない。 信心しながらも教えを頂かず、教えを守らないなら、親の言うことを聞かぬも同じ こと。 なぜ聞けぬのか。 それは『合点』がないからです。合点とは親心との一致点がないから、親の心がわ からないから。 親の心がわかれば親不孝は出来ぬ。 神の心がわかれば信心せずにはおれぬ。                (昭51・7・3)  「親の心子知らず」と申しますけれども、これは本当に、仕方のないことでは済 まされないんでしょうけれどもね。私は、今、慙愧の思いに駆られるんですが、初 代のお元気な時分に、どれほどに初代の心を、親の心をかきむしっただろうか、と 思います。  ですから、たとえば、神様孝行、親孝行と申しましても、これはやはり、それぞ れが、そういうご時節を頂かなければ出来ることではないと思います。私も、今に なって、「はあ、本当にそうでした。本当に初代は嘘をおっしゃってなかった。こ れを分からせるためでしたか」と分かるのです。ですから、たとえば、当然、大人 の気持ちを子供が理解できるはずがありませんよ。 昨日、ご大祭のお舞いを光昭のところの安子が奉納しました。あの衣装を着けて、 化粧をして、下がって来たんですね。愛子のところの孫に美郷というのがおります が、普段は安子が「おいで」と言うと、すぐ行くんです。ところが、衣装を着けて、 化粧をこんなにしとりますから、昨日は、「おいで」と言っても、激しく泣き出す んですね。それは、異常に思いますよ。こんな衣装を着けて、真っ白に塗りたくっ てますから。それで、安子が化粧を落としてしまったら、また行くんですね。それ はそのはずですよ。幼い美郷ですからね。これが、私達から見たら、恐いと思わな いのです。なぜなら、その人の正体を知っとるからということになるわけでしょう。 親の心が分からない、というのは、こんなもんだろうと思います。たとえば、私が 今申しましたように、初代のお元気な時分に、懇切丁寧にというか、本当に卓を叩 かんばかりに教えて頂いたことが、今、私どもが分かるというのは、やっぱり、こ こまで、お互いが成長してこなければ、分からないところがあります。  昨日、ご大祭を終らせて頂いて、改めてそれを思いました。お互いの信心はもち ろん成長していくわけでしょうけれども、合楽理念も、私は成長していくんだなあ と思ったんです。それを分かりやすく言いますと、このローカルの合楽の助かりの 理念から、ずうっと合楽理念の内容が分かっていく、教祖様が分かっていったら、 「いや、これは合楽教会の信者だけが助かるもんじゃないんだ。金光教の助かりの 理念なんだ」ということが、私の中ではっきりいたしました。いや、そして、今こ うやって、世界のことが見え、世界の宗教が見えてまいりますと、とんでもない、 合楽理念は、金光教の理念どころか、世界の理念だというふうに、私の中で、この 合楽理念が成長していってるわけです。ですから、そういう意味合いで、お互いの 信心が成長しないかぎり、そこは、分かることではないと思います。  今朝椛目で、宮崎さんがバス停でバスを待っておられたのです。そうしましたら、 バスが超満員だった。もちろん止まったんですけれども、「もう宮崎さん、乗れん よ」と、もう超満員ですから。「それでも、こうやって押し込んで、何とか私まで は乗せて頂きました」と言われました。今度のこの働きは、私は、百人一徳者育成 だと、思うんですけれども、お互いが、このバスに乗せて頂かねばなりません。け れども、昨日、そして、今日、この御理解を頂くというのは、私としては、皆さん が、まだその合点が出来ていないのだ、と思います。たとえば、私が、今、一生懸 命伝えようとしておりますけれども、「突然、キリスト様のことを言うたり、世界 清め運動のことを言われるが、何じゃろう」と合点のいかない人も、また、おられ るんだろうなあと思うんです。  けれども、これは、最初に申しましたように、私どもが初代のお元気な時分に、 初代の心に添う信心をしたか、初代の言われるとおりにしたか、というたら、その 時分には、成り行きを尊ぼうとか、和賀心になろうなんて、私は、これっぽっちも 思わなかったからですね。そういう私が、初代のご入院、お手代りというご時節を 頂いて、ようやく私の信心が目覚めたわけです。「まあだ分からないの」というこ とはないと思います。けれども、せっかくならば、こういう神様が用意して下さっ たこの成り行きに、一つ乗れるならば、乗せて頂きたいということです。 どうぞ。
平成11年10月6日 朝の御理解(親先生) 御理解第28節  病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九 分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるよ うなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるま で、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せ よ。 「我、無力無能無才にして」の自覚。 あなたにすがらねバ助かりようのない私。あなたのおかげを受けねバここ一寸動け ぬ私。一切をおまかせするより他に道のない私。 それでもお役に立ちたい一念を燃やす時、あいよかけよの無限の道は開かれるので す。 途中で止めるにも止めようのない道が。         (昭51・7・11)  今、私の心境を表すならば、まさに今日のミニ御理解のままであります。本当に 大それた願いと思うんですけれども、宗教革命から始まり、人類革命というような 思いに、今ならされているんです。どうでも、この荒地荒屋敷の人類の立ち行き、 地球の清まりというようなものを願わせて頂きます。けれども、願いが大きければ 大きいほど、我、無力だなあ、と実感せずにおられません。 過去の人類の歴史というのは、革命の歴史と言ってもいいんですね。様々に世の 中が変遷しながら、次々に新しい思想とか、新しい権力とかいうようなものが生ま れてきます。そういう観点で、今日の御理解28節を頂きます時に、私が、今度、 20日間程、具合が悪く、青息吐息でしたが、それは、今の地球の状態ではないか、 と思ったのです。ですから、この地球というものが、そういう意味合いでの体質改 善を頂かなければならないのです。けれども、いつそれを皆が自覚するのだろうか、 と思います。もっと手短に申しますと、例えば金光教の今の衰退の具合ということ です。そういう危機意識の中で、あれは、昭和53年でしたが、大阪講演というの がありました。大阪の青年教師の先生達が、なんとか金光教をもう一遍蘇らせたい、 というようなことで、泉尾教会の三宅先生と初代とを大阪に迎えまして、講演会が もたれたわけです。その時、大阪の青年教師の人達が、「もう信仰の危機と言うよ り、生活の危機です」というようなことを仰っていました。そういう危機意識があ るなら、大手術でもしようということになって来るのでしょうけれどもね。 私が、初代のお手代りをして、「今まで何をしていたんだ」と感じ、そこから私 の自己崩壊、自己改革というものが始まりました。だから、皆さんに、この1年の 間に、先ずそれをやって下さい、と言ってるわけです。しかも、合楽理念に基づけ ば、絶対幸せになれる。しかもこれは普遍的である、という確信を持ってからのこ とですから。ただ、夢のような話を申し上げているのではないわけです。 初代が、よく「この神様の前に両手を上げた人達が、手に手を取っての世界平和 運動でなければ、意味がないよ」と言っておられました。なんとか世の中を変えて やろうと、過去にいろんな革命が起こりましたが、「そういう人間がやった事は、 大した事じゃなかったなあ」という総括を今、しなければならないのではないでし ょうか。本当に神様の前に手を上げた、いわゆる無条件降伏した私達が連帯して、 ということでなければならないと思います。そうなりました時に、「あなたにすが らねバ助かりようのない私。あなたのおかげを受けねバここ一寸動けぬ私。一切を おまかせするより他に道のない私」ということになります。ですから、私は今、毎 日、「どうぞ成り行きの中で、私がこれからすることを、ご教導下さい」と願って おります。だから、どういう成り行きの中で、この世界清めの働きをして行くこと になるか、私も皆目、見当がつきません。けれども、「それでもお役に立ちたい一 念を燃やす時、あいよかけよの無限の道は開かれるのです。途中で止めるにも止め ようのない道が」ということに必ずなっていくと思います。 いよいよ明日、御本部の生神金光大神大祭に参拝させて頂きます。思いますと、 私が、教祖様の復活を願わせて頂いて、丁度1年経ちました。そして、僅か1年の 内に、よくぞここまで、教祖様を辿らせて頂いたなあと、これが私の実感です。で すから、この地球清めのことでも、神様が、どういう道を開いて下さるか、分かり ませんよ。けれども、これは、この頃の月例祭の時でも実感したんですが、半分の 人達は、「本当にそうですね」という顔をして聞いて下さる。ところが、あとの半 分の人達は、まだぴんと来てないですね。ですから、ここのところの足並みが揃う のに、時間がかかるわけでしょうけれども、この運動が本当の運動になっていく、 ということも、神様の後押しと言いましょうか、神様との共同作業の中で、なされ ていくことでございましょう。 今日の御理解を頂きながら、お互いが、私として、何が出来るのだろうか、と思 って頂きたい。先日、淵上先生が、月例祭に祭員の御用を仕えながら、有名なケネ ディ大統領の演説に、「アメリカがあなたに何をしてくれるか、ではなく、あなた がアメリカに対して何が出来るかを考えて下さい」という言葉がありますが、しき りにそのことを頂くと言うんです。 私も、そういう時代だと思います。神様に何かをして頂く、というんじゃなくて、 私が、神様のために、何が出来るか、というような、そういう願いを持たせて頂い たら、有り難いと思いますね。 どうぞ。
平成11年10月5日 朝の御理解(親先生) 御理解第6節  目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろ うが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。 何をなしておりましても感謝の心が頂ける信心……。 すべての中に事柄の中身を味わい、御事柄と頂く時、一切が生き生きと輝き、神の 恵みと御礼の心が湧いてくる。 信心しておれバあれは飲まれぬ、これは食してならぬということはない。神の恵み と押し頂くとき、神さまもよろこんで下さり、私共も有難い。 神恵みの中にあることを悟ることである。  底深く静かにしずかに湧き出づる 愛の真清水くみてのまばや                            (昭55・7・28) 「神、我と共にあり」とか、「同行二人」というようなことを言いますけれども、 それをお互いがどこまで実感できるかということです。本当に遣る瀬無いだろうと いう真っ暗な時でも、神様を見近に感じられるならば、そこから、助かることが出 来るのです。合楽の人達の場合、どういう状況の中にあっても、成り行きの中に神 様を感じていっておられます。そういう意味合いで、貧争病のない世界だと言って いるんです。糖尿病という名の御都合でした、いや子供ではありませんでした、お かげで信心ができました、というようなことになってきているのです。それをここ では「すべての中に事柄の中身を味わい、御事柄と頂く時、一切が生き生きと輝き、 神の恵みと御礼の心が湧いてくる」と言っておられます。そういう助かり方が、信 心のない人達に分かってもらえないだろうか、と思います。  この教祖様の御理解は、いつ頃のものだと思われます。大体安政5年から6年に かけての話ですよ。その頃の教祖様は、どういう信心をなされていたかと言います と、それこそ箸の上げ下ろしに至るまで神様が物を言って下さってあります。教祖 様のように、いちいち神様からお知らせを頂いたり、神様がてご(手伝い)をして 下さったりするなら、神様を身近に感じることが出来ます。これまでは、そういう 人しか、「同行二人」という実感が頂けなかったんでしょうが。そこで、大坪総一 郎という方が、成り行きは神の働きという、誰でもが肉眼で神の姿が見え、肉の耳 で神の声が聞こえる手立てを教えて下さったわけです。ですから、私が昨日言いま したように、合楽で信心をさせて頂く者は、例えばテレビが壊れても、「あら、神 様が何を仰っておられるのだろうか」ということが、生活習性になってもらいたい のです。神様のメッセージは、すぐ分かることもありますが、なかなか答えが出な い時もあります。そういう意味合いで、初代という方は、執念深く問題を抱き抱え ておられましたよ。そして、3年後、5年後、10年後に、答えを出しておられま した。 例えば、初代が、突然悪くなられて入院、あの188日間の御修行というのは地 獄のような毎日でした。私たちが、お見舞いに行って、本当にずたずたになって帰 って来てました。だから、神様に「何でこんなに痛めつけるのですか」と文句を言 いたいような思いがしました。そして、私の中で、このことが、赤飯を炊いて神様 にお礼を申し上げなければならないことだったと分かったのは、3年、5年経って からです。そして今では、御の字どころか、それでも足らないですよ。 初代はよく「私の思い通りになった子供は一人もいません。けれども、私の願い 以上の子供に育ってくれた」と言われましたが、これは裏を返せば、言うことを聞 かん子供ばっかりだったということです。それを初代は、抱き抱えて下さったんで す。子供の姿は私の姿だ、と初代が御自分を掘り下げて、掘り下げて「底深く静か にしずかに湧き出づる 愛の真清水くみてのまばや」というように、初代の中に、 愛の真清水がこんこんと湧くようになっていかれたというだけのことですよ。そう いう実験実証を積み重ねながら、成り行きは神の働きということを示して、凡人が、 神様を身近に感じられる道を明らかにして下さったのです。それが、合楽理念です。 『お知らせ事覚帳』をご覧になって下さい。教祖様の場合も、成り行きの中に神様 を見ていかれたことが分かります。  安政5年と6年は、神様から頂かれたお知らせをいちいち書いておられますが、 次の安政7年には、たった2行です。次の文久元年は、5行です。その時でも、神 様のお知らせは、今まで以上に頂いておられると思いますよ。けれども、そんなこ とは、教祖様が無視していかれる。結局、神のお知らせは、方便だということなの ではないでしょうか。そして、今度は、成り行きの中で神様を感じていかれるとい う件がたくさん出てきます。158ページを見て下さい。  どうでしょうか、皆さんの生活の中で、一切を神様の働きと見る習慣が身に付い てきていますか。「成り行きは神の働き」ということが生活原理になりますと、助 かりの原理になります。神様を身近に感じて生活出来ることが、安心と喜びの生活 です。どういう中にあっても、安心していられる、喜んで生きられる。喜びどころ か、初代のあのご晩年のお姿です。それこそ「嬉しみの世界」と言われてるんです けれども、何を見ても聞いても、初代は、顔をくしゃくしゃにして感動なさいまし たよ。あの病気の苦しい中に、本当に嬉しみの世界に住める。そういうことが、誰 でも出来る道を、教祖様、そして初代が、百年かけて、残しておって下さってるん ですから、どうでもそのことが私たちの生活原理になるところまで、ひとつ稽古を させて頂きたいと思いますね。 どうぞ。
平成11年10月4日 朝の御理解(親先生) 御理解第44節  狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれ ば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。 金神大神の道は、凡夫の身そのままに神に至る道なり。 出家することもなく、人間を幸福にせずにはおかんという神愛に触れながら……。 その親神の思いにふれる時、いよいよ神の道をたどらずにおられない。                             (昭57・7・4)  お互いが、何を楽しみにしておるかということが、今、あなたが住んでいる次元 だと言ってもいいと思います。例えば、私なんか、勝負事が好きでしたから、子供 の頃、あのパッチンとか、ラムネ玉とかを箱一杯持ってました。毎晩どれくらい溜 ったか数えて、心がわくわくしていました。しかも子供の足で、例えば吉木とか、 もう3キロ4キロありますよ、そこまでパッチンしに行ったりしてたんです。それ で、これだけは我ながら感心しますのは、私が5時から6時まで御結界奉仕してま したから、もうどんなに遠くにおりましても、必ずその時間には帰って来てたんで す。けれども、今日の御理解で「人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつら れ、神になることを楽しみに信心せよ」と仰るのですけれども、お互い、あまりに も無価値なことに一喜一憂していないでしょうか。  金儲けが楽しみで一日働いて、ある人などは、一日働いて一杯飲むのが楽しみで 働いている。そのことに自分のせっかくの大事な命を消費してるわけでしょう。例 えば、暴走族がどうのこうのと言いますが、若い人たちには自分の心を今ドキドキ させる場がないんでしょう。ですから、ああいう行動をとるわけでしょうけれども、 同じことをお互いしておるのではないでしょうか。私が以前「ウンコの上にあぐら をかいておるせっちん虫」のお知らせを頂きましたが、おれは何億円貯めた、俺は こんなに立派な家を建てたというても、それは、神様の目からご覧になれば、無価 値な物の上に、あぐらをかいておるようなものです。結局、心が育っていないから です。そういう意味で、「神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ」と言 われるが、どれだけお互いの和賀心が育っていっておるかということです。  初代が、あの透析が終った直後の意識が朦朧としておられる時に、白い着物を着 た方が、初代の横に立たれて、「お前がこの世に残しておきたい言葉があるなら書 け」と仰るのです。そして、書き残されましたのが、例の、みみずが這ったような 「和賀心」と書かれたわけです。そして、初代は、「私が残す言葉は和賀心以外に ない。私の一生は、自分自身の中に和賀心を求め続け、今月今日も和賀心、これか らあちらにいってからも和賀心を頂き続けたいと思う」と仰せられたのです。これ は、お互いが、来年の椛目合楽布教50年に向けて、一つ本気で自己点検してもら いたいと思います。  今、「人類二千年の総括」ということを申していますが、キリスト教の犯せる大 罪というのは、どこかで総括すべきだと思いますよ。ローマ教皇が全人類に向かっ て、一遍は謝るべきだと思います。改めて見てみますと、バチカンの権力というの は凄いですよ。例えば、バチカンの中で、奴隷を売買したんだそうです。そして、 あの魔女狩りです。聖書以外は全部異端ですから、何百万もの人を拷問にかけて殺 しておるのです。あのマルチン・ルターさえ魔女狩りに加担していて、あのナチの ユダヤ虐殺に繋がっていくのです。これがキリスト教の中世期における実態ですか ら、純真に信仰する者にとっては、耐え難いわけです。ですから、そういう人たち は、いわゆる隔離生活、隠遁生活に入るわけです。修道院などは、その流れの中に あるのだそうです。ですから、真面目に生きようとすると、あれもしてはならない、 これもしてはならない、屁もこいちゃあならないと思うわけです。それも、そうじ ゃないわけです。わが教祖は、屁もこかれました。それこそ家庭の中にはどろどろ した問題を抱えながら、それをここでは「出家することもなく、修道院に入ること もなく、人間を幸せにせずにはおかんという神愛にふれながら、その親の思いに触 れるときいよいよ神の道を辿らずにはおれない」と言われているように、生神の道 を歩んで行かれたのです。  私は、昨夜からこの肩が抜けるように痛いんです。こんな時に、「神様は何を分 かれよと仰っているのだろうか」と求める、これがどうでもお互いの生活習性にな ってもらいたいと思います。「肉眼をおいて心眼を開け」というのは、そういうこ とです。難しいことでもなんでもないですね。そういう頂き方をしていくと、段々、 ここで言われるように、その親神の思いに触れる時いよいよ神の道を辿らずにはお られない、ということになっていくのです。  そういう道を辿っていくのが、成り行きを尊ぶということで、神様の心を心とす ることですから、そのまま和賀心が育つはずです。神になる稽古になっていくわけ です。いよいよ本当のことが本当のこととして見えて来るはずです。今日は本当に、 こんなことも神ながらだと思うのですけれども、今日の4日の日に44節を頂いて おるわけですけれども、お互いが、そういう意味合いで始終幸せ(四十四)と言わ れるんですが、どういう中にあっても、神様を感じておれる、どういう中にあって も、助かっていけるというのは、成り行きを尊んでいく、この道以外にない、と思 います。 どうぞ。
平成11年10月3日 和賀心デー御理解(親先生) 御理解第69節  信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心で は、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつ れ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち 行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。 その日その日のおかげが足らんような思いから、信心が間違ってくる。 信心はどこまでも我ながら我が心をまつれるようになるけいこである。 信心は容易いものと仰せられるのは、例えば自動車の運転を覚えるようなもので、 覚える気になれバ誰でも覚えることが出来るようなもの。覚えようとしないからむ ずかしいものになる。                 (昭46・7・20)  先程、あるご婦人が、今、家庭の問題を頂いておられる方ですけれども、「もし も合楽にご縁を頂いてなかったら、毎日、泣き暮らしとったでしょうけれども、合 楽の信心を頂いて、こうやって安心して、それこそ喜びを持って、日々を送られる ということが有り難いです」というお届けをなさいました。私は、それを聞かせて 頂いて、教祖様が、安政2年の件で、あの円い○を書かれた所がありますが、これ が、教祖様の信心の土台、原点だなあ、と思わせて頂きました。  それは、どういうことかと言いますと、教典の22ページに、教祖様が、どうい う信心をしていいのやら分からない中で、次々と、七墓を築くというような、大変 な、お御苦労をなさる場面があります。次々と子供を亡くし、同じ月日に牛が死ぬ んですから、教祖様の心の中に、なんともおどろおどろした恐ろしさがあったと思 います。そのことを、教祖様は「神仏願いてもかなわず、いたしかたなし。残念至 極と始終思い暮らし」と言われてるのです。そういう教祖様が、いよいよ、ご自分 が九死に一生の「のどけ」にかかられるわけです。その場面が、教典の10ページ に詳細に描かれていますが、そこでも、教祖様は神様に実意の限りを尽くされ、そ の後に、この円い◯を書かれて、「ここまで書いてから、おのずと悲しゅうに相成 り候。金光大神、其方の悲しいのでなし。神ほとけ、天地金乃神、歌人なら歌なり とも詠むに、神ほとけには口もなし。うれしいやら悲しいやら。どうしてこういう ことができたじゃろうかと思い、氏子が助かり、神が助かることになり、思うて神 仏悲しゅうなりたの。また元の書き口を書けい」という、件になっておるのです。 これが、教祖様のご信心の源流です。  今、私は、本気で「この地球上から貧争病のない世界ができないものだろうか」 と願っております。いや、私はできると思うんです、合楽で言う「貧争病のない世 界」というのは。だからというて、皆さんが、この現世において、貧争病が無くな るというような幻想を抱いてはなりません。合楽的に言う「貧争病のない世界」と いうのは、「貧争病という名の神様のご都合」と頂ける世界です。これは、最近思 うんですが、「信心は家内に不和のなきがもとなり」と言われるんですけれども、 問題のない家庭なんていうのは絶対ありえません。第一、全く、縁もゆかりもない 男と女が一緒になって、問題がないはずがないです。むしろ問題があることの方が おかげです。なぜって、それが、「いやなもの、いやなこと、すべてが心の肥やし」 とおっしゃるように、お互いの心の肥料になるんですから。  私、昨日、ふっとそれを思ったんです。例えば、病院というところは病気を治す ところでしょう。学校というところは、知識を身に付けるところですね。そうして みたとき、家庭というのは、一体何をするところでしょうか。間違いなく、安らぎ の場ですよ。ところが、今の家庭は、安らぎの場でなくなってしまっております。 そういう意味合いで、世の中の狂いの始まりは、家庭にあるんじゃないか、と思っ たんです。「その責任は、女の方よ」と思いませんか。初代がよく言われてました、 あの安心の「安」というのは、家の中に女がおるからです。だから、女の人の御用 というのは、大きいなあと思います。夫や子供が帰って来て、お母さんの顔を見た らほっとするような家庭作りが出来るのは、女の方です。  今、私が「二千年の総括」というようなことを言ってるわけですが、どこが狂う てきたのか、どこから間違ってきたのか、反省するところは反省して、信心の上で も、もう一遍、信心の原点に立ち戻らせて頂く時だと思います。それは、皆さんに は唐突な事に聞こえましょうけれども、私の中では、17年間の合楽理念の実験実 証の中で、こんなにも間違いのない助かり方があるだろうか、というものを積み重 ねてきてからのことなのです。初代が「合楽理念は簡単です。明瞭です。しかも、 おかげが確かです」と言われましたが、この「成り行きを尊ぶという生き方」での 助かり方というものは、それほどに確かなのです。それが今、私の中であふれてき ていると思うんです。そういう意味合いで、合楽理念に基づくなら、「貧争病のな い世界」に100パーセント住めるのです。それも、今度の、この神様の頼み事は、 共同作業でなければできません。これは、皆さんの「足並みが揃う」ということと、 「神様との共同作業」だと思うんです。  皆さんが、合楽理念に基づくなら、めいめいの中で、この〇が書けるはずです。 それが、皆さんの信心の土台となる時、神様の心を心とするというならば、この成 り行きを尊ぶということ以外になかろう、ということになってくると思います。今、 私は、これによらなければ、21世紀は助からない、立ち行かない、そういう願い、 思いを強うさせて頂きます。 どうぞ。
平成11年10月2日 朝の御理解(親先生) 御理解第50節  とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、 肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。 世間では「金の成る木があるじゃなし」というが、お道の信心は金の成る木だけで なく、人間の幸福の条件の一切が成就(なる)徳の道である。『肥をせいでもひと りでに物が出来るようなものぞ』と教えられる所以である。常平生、根を肥やして おかねばならぬ。根とハ心の根、家の根、天地の根。天地への還元が大事である。                             (昭46・7・1)                         ※家の根とは親先祖のこと  私は、いつも思うのですけれども、合楽の助かり方というのは、その助かりの根 拠性があるということです。例えば、旧約聖書の中に出てきますが、モーゼという 人が、奴隷生活を送っているイスラエルの人達を引き連れて、エジプトから脱出す る場面があるんです。その中での有名な話が、海が2つに割れて無事にそこから脱 出するというような話です。また、食べ物がなくて、モーゼが祈ると、天からパン が降ってくるというような話です。この旧約聖書をユダヤ教の人は100パーセン ト信じているんだそうです。合楽の助かり方というのは、そういう万に1つの、そ れこそ宝くじに当たるようなおかげじゃないです。今日の御理解に代表されますよ うに、「地を肥やせ。地が肥えておれば、ひとりでに物ができるような」という、 こんなに確かなおかげです。 これは初代が、大変感動なさったんです。合楽理念というのが打ち出されて、ど なたかが、字引で引かれ、理念というのは、「理性の判断から得た最高の考えで、 全経験を統制する」とあります、と聞かれて。私は、合楽理念に基づく助かり方と いうのは、理解に苦しむような助かり方ではなくて、私たちの理性で判断出来るの です。そういう意味合いで、学問は、本当にいるなあと思います。  昨日、中国の共産党政権が確立されて、50周年の記念式典があっておりました。 毛沢東が、革命を起こし、大変な勢いで中国が一致団結するわけでしょう。一大事 というような時なら、あの一致団結が出来るんです。ところが、経済発展というの を主にすれば、自由競争の方が発展すると言われているように、その後、そういう 大きな壁にぶつかるわけです。それともう一つは、毛沢東が絶対権力を握るわけで す。ところが、権力というのは恐いですね。自分の意に染まない人達を全部粛清す るんです。何百万だそうです。歴史から学ぶと言いますけれども、お互い、何を学 んだのでしょうか。そういう意味合いで私達の、この人間の持つ理性は、神様が与 えて下さったんだと思うんです。ところが、知ったかぶりというのをやりますから、 学が身を食うという事になるのです。より本当な事が分かるために、お互いが学問 をする。何が本当か、何が嘘かということを判断出来る力を人間は与えられている わけですから。それが理念なんです。理念に基づいて助かる。私が言っています、 貧争病のない世界というのは、理念に基づいてのことなんです。この地球上から病 気をなくしてしまいましょう。貧富の差をなくしましょう。または争いをなくしま しょうと言うのではありません。例えば病気で言いますと、この現世で、病気がな くなるということは絶対ないと思います。なぜって、この世に私たちは修行に来て いるわけですから。だから、貧争病がなくなるということはない。けれども、御理 念に基づけば、貧争病がなくなるんです。 初代は、貧争病を通られました。例えば、糖尿病ということが発見されました。 それは、ここの御造営が始まって間もなくです。今のお金で、何十億の仕事です。 その時、どうでも学院に行くように言われたんです。その時は、大騒動しました。 けれども、初代は「行く」という決心をなさいました。あの時、初代がもし1年間 学院に行っていたら、当時の合楽では、空中分解してますよ。親先生信仰の人ばっ かりだったんですし、あの大借金の中ですから。初代が「学院に行こう」と腹を決 められました。そのための健康診断が要ったわけです。そこで、糖尿病が発見され たわけです。それで初代が後々、私のは、糖尿病という名の神様の御都合と仰った わけです。例えば、初代の晩年のあの12年間の病い。私は、今それを思うだけで も、背筋に寒いものが走るんです。初代が、あのままお元気なら、私は信心したよ うな錯覚で、今まで年取っていますよ。そうなった時に、貧争病という名の神様の 御都合だったでしょうが。それが貧争病のない世界です。  今、神も仏もあるものか、と思うて暮らしておる人達がたくさんおられます。そ ういう人達に、「本当に神様があなたの傍におられるのですよ。神様の御都合の中 に、これがあるんだ」ということを分かってもらえないだろうか。いや、それが分 かったとするならば、本当に地獄から天国ですよ。教祖様が、例の七墓を築かれて、 そして初めて神様に出会い、「なるほど、我身は天地の大恩の中に生かされてある」 ということが分かるということは、地獄から天国でしょうが。だから、神様の、そ ういう一分一厘間違いのない働きの中に生かされてあるということを一人でも多く の人達に分かってもらえる手立てはないものか、と思います。  これは、皆さんはどうか分かりませんが、私に信心がなかったら、私は間違いな く貧争病の世界に住んどっただろう、と思うのです。そして、この間違いのない助 かりの実感、実証を今日頂きながら、私達が、どこまで神様の願い、その痛みを痛 みとして受けられるだろうか、私として何が出来るんだろうか、ということをしき りと思わせて頂くのです。 どうぞ。
平成11年10月1日 月例祭御教話(親先生)  今朝の御理解が、「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる」という御理解でした。 先ほどお祭り前の御結界奉仕をさせて頂いております時に、もう何人もの方が、合 楽に御縁を頂いて、「荒れ地荒れ屋敷」の自分の心が、家庭が、かくおかげを頂い て、こういう有り難い世界に住まわせて頂いておりますというお届けがありました。 これは最近、特に、皆さんが成り行きを尊ぶということに取り組まれて、その助か り方の確かさというようなものを感じるんです。  私は今度、貴重な体験をさせて頂きました。ここが合楽(あいらく)と言います けれども、天ヶ瀬のちょっと先に、同じ字で、合楽と書いて、読み方は「ごうらく」 という、見事な渓流の麓に、先月、ご案内頂きました。そして、翌朝、お風呂から 上がってきましたら、急に痛みだしまして、チェックアウトも延長しまして、とう とう12時まで寝込みました。余りの苦しさに生汗が出て、どうも様子がおかしい。 同じ合楽ですけれども、「ここで死んでは、ちょいと様にならんなあ。せっかくな らば合楽がええなあ」と、そういう悲愴な思いでした。それで、やっとの思いで、 合楽に帰らせて頂きましたら、今度は、もう震えがきだしまして、毛布を10枚ぐ らいかけても、その震えが止まらないわけです。そして、今度は猛烈な熱が出まし て、そういう状態が、一週間ぐらい続きましたでしょうか。それから、食欲も全く ないままに、昨日、ようやく何か元の体に戻ったかなあというような成り行きを頂 きました。  けれども、私は、この20日間の成り行きの中で、新しい生命を頂いたような、 体質改善、運命改善、性格改善と言われますけれども、本当に何かそんな感じがす るんです。そして、私がこの20日間の中で、いろいろ思わせて頂き、願わせて頂 きましたことが、今日は、大変大きいことを言うかも分かりませんけれども、「ど うでも、この地球から、貧争病のない、真善美輝くおかげを頂く、一つそのお役に 立たせて頂きたい。そのことのために、私のこれからの生涯を使うて頂こう」と決 心させて頂いたわけです。そして、そういうやむにやまれない思いの中で、今朝御 理解を開かせて頂きましたら、御理解14節でした。「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌 いなさる」というのです。これは、初代が昭和49年に頂かれたお知らせですが、 「地球に死相が出た」と神様がおっしゃるんです。その時、あわせて、「寒天危地 を歓天喜地に」と頂かれるのです。私は、今日この御理解を頂かせて頂いて、「今、 地球が荒れ地荒れ屋敷になっておる。それを何とか出来ないものか」という、神様 の悲痛な願いを痛感するのです。  けれども、これは、私達がどんなにばた狂うて、「地球の平和だ。人類の立ち行 きだ」と言うても、とても出来ることじゃないです。いや、これは、神様との共同 作業でなければ、できることではないです。私達が、平和運動とかボランティア活 動とか、どんなにやったところで、人情だけでは、焼け石に水です。どうにもこう にもなるはずがないです。ところが、ここに神様の後押し、神様が御発動して下さ れば別だと思います。  例えば、人類の歴史というのは、もう本当に争いの歴史です。この20世紀だけ でも、1億の人が戦死してるんだそうです。また、何千万、何億人という人が、も う食べるものがないんです。住む家がないんですよ。だから、私が、今、神様に願 うておりますことは、「神様、この地球上に、貧争病のない、真善美輝く世界顕現 というおかげを頂くためのお役に立たせて下さい。そのために、神様、私を使うて 下さい。私からどうのこうのと動こうとは思いませんが、成り行きの中で私を引っ 張って下さい」と願ってるわけです。そして、ここが一番大事なところですけれど も、助かりの手立てを知っておる者、天地の心を心と出来る人達、その人達が、ボ タンを押したら、神様が発動して下さると、私は感じるんです。  これは、明治13年のお知らせですが、『一つ、お知らせ。人代と申し、わが力 で何事もやり。今般、神が知らしてやること、そむく者あり。神の教えどおりをす る者は神になり。昔は神代と申し、今は人代。昔へもどり、神代になるように教え てやる。難儀はわが心、安心になるもわが心』とあります。ですから、ただ人情で、 ただ可哀想だからしてあげようぐらいなことなら、それは、わが力でやりというこ とになると思うのです。それでは、何にもならないことになります。ところが、今、 私のさせてもらおうとしていることは、神様の願いに添ってさせて頂いてるんだと いうことだと思うんですね。  ですから、成り行きは神の働きということを実験実証しながら、一つ、「この地 球の清まりのために、私は何が出来るんだろうか」と求めて下さい。今日、何人か の方が、早速、それを行動なさいました。皆さん、思うてみて下さい。私のように、 もしも信心がなかったら、どういう人生を送っただろうかという男が、こういうこ とが祈れるようになったのです。世界のことが、本当に祈れる時、本当は、私自身 が助かってるんです。ですから、あなた自身が、祈るか祈らないかは、どうでもい いんですけれども、寒天危地が、足音を立ててここまで来とるというなら、皆さん、 願わずにおれないんじゃないですか。「おかげは和賀心にあり」、「成り行きは神 の働き」と分かった人達が、いうなら土の心を土台に持った人達が、今こそ、どう でもこの天の心を使わなければならない時です。  今日の御理解を頂いて、「先生、間に合うでしょうか」とお届けがありました。 間に合うから、神様が頼んでおられるのです。しかも、これは、共同作業が必要で す。お互いが、私に出来ることは、私で祈れることは何だろう、と思うて頂いて、 神様の御発動の頂ける心遣いをさせて頂きたいと思います。 どうぞ。
平成11年10月1日 朝の御理解(親先生) 御理解第14節  神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。 心が荒れてはおかげにならぬ。家の内が乱れておっては神さまがお嫌いなさる。 『おかげは和賀心にあり』『信心は家内に不和の無きが元なり』とおしえておられ ます。   輜重輸卒が兵隊ならば 蝶やトンボも鳥のうち 小さいことを揶揄したものでしょう。 信心も一人前になる為には心の養生、即ち大きく豊かになる稽古をする以外はあり ません。                      (昭44・7・31)  ちょうど今日で20日になりますけれども、昨日ぐらいから、ようやく体が元に 戻ったかなあというような感じです。けれども、この20日間、私の身の上に起こ って参りましたことは、何か、これからの合楽のと言いましょうか、もう大きく言 えば、人類の指標を教えて下さったような気がするわけです。  今、私がこうですし、光昭が腰を痛めて動けない。恵城が、アキレス腱を痛めて、 動けないというような成り行きを頂いています。そして、私が、これはただ事じゃ ないなあと思いましたのは、私の部屋のトイレが壊れる、シャッターが壊れる、ソ ーラーが壊れる、電気関係が次々と故障し出したんです。いや、これは本当に皆さ ん、例えば何かが壊れた、「ああ壊れた」だけじゃなく、私は、そのことに込めら れた神様のメッセージを聞かなきゃ嘘だと思います。そして、その20日間のうち に、例えば台湾の大地震がありました。今も何ですか、茨城の方で、放射能が漏れ てるんでしょう。そして、今日の御理解を頂いて、本当に「地球が荒れ地荒れ屋敷」 になっておるという現実を皆さんが、認識しなきゃ嘘なんじゃないでしょうか。  私は、この20日間のなかで、私のような者が何でと思うような感じがしてるん ですが、本当に「この地球上に、貧争病のない、真善美の世界顕現を願わせて頂こ う。そのために、私のこれからの生涯は、神様、使うて下さい」と願わずにおれな くなったのです。この貧争病のない世界というのは、問題が問題でない世界という 意味です。この地球上から病気がなくなるんじゃなくて、病気という名の神様のご 都合と頂ける世界です。大変大きいことを言うようですけれども、それでは、何を すればいいかと言うと、この初代のミニ御理解です。まず私の心の中に真善美を築 いて下さい、まず私の家庭の中に真善美を築いて下さいと。その人達がボタンを押 せば、私は、世界が動くと、神様が感応して下さると思います。 あのタレントのタケシという人は、その視点を大きいところに置いてますね。あ の番組の作り方は、間違いなくそうです。彼の番組の中で、あるアフリカの青年が、 日本の大学で勉強しながら、160万円貯めて、アフリカに日本語学校を作ろうと 思うて、意気揚々として帰るわけです。ところが、田舎に行けば行くほど、小学校 一つないんですね。その現実に直面して、とても日本語学校なんていうことではな い、まず小学校を作ろうというんで、学校を作るためには、やはり井戸掘りをしな きゃいけないんですね。ところが、ああいうアフリカの土地ですから、その井戸掘 りだけで150万ぐらいかかるんだそうです。けれども、決心した以上、何とかし たいというんで、井戸掘りをして、水が出たんです。私は、それを見ながら涙が流 れて流れて仕方がないんです。 泉尾の三宅先生がインドで井戸掘りをなさったんですね。今までの私は、これは はっきり言って、あんなことしたって、焼け石に水だ、というような思いでした。 今、私が思っている願いは、土の心が私の中ではっきりしたからこそ、私が言える ことですし、そういう成り行きの階段を登ってきて、私の今の思いだと思うんです。 ですから、私は、飽くまで成り行きを頂かなければ動きませんけれども、何とかし たい、許されるものなら、何とかしたいというような思いが募っております。お互 い、どうでしょうか。本当にただお互いの日常茶飯事で、ことが終えられるような 時代ではありません。本当に世界の真の平和を願い、本当にこの地球上から、貧争 病のない世界を顕現していくことのために、何とかお役に立たせて頂けないものだ ろうか、と思います。そういう思い、願いの中に、今日の御理解を頂いて、「この 地球に死相が出よる。地球が荒れ地荒れ屋敷になっていっておる。何とかしてくれ ないか」というような神様の願いを頂くわけです。 そして、どうすればいいかは、間違いなく、私の中に、和賀心を築くことです。 私の中に、私の家庭の中に、貧争病のない真善美輝く世界を築いていくことです。 これなしに、どんなに世界平和だ、ボランティアだと言ったって、神様が発動なさ るはずがないです。本当に、何か、神様が急いでおられる。それは、他のものは知 らん、私だけ助かればいいというようなものじゃないです。ただ合楽のものさえ助 かればいい、そんなものじゃないです。これから、どういう成り行きの階段を、神 様が用意して下さるか分かりませんけれども、これだけは一つ、皆さん、「今この 地球というものがただ事ではないんだ。荒れ地荒れ屋敷になっていっておるんだ」 という認識だけは、持っていて頂きたいと思います。そして、どういう信心をさせ て頂けばいいのか、私として何が出来るのか、一つ考えて頂きたいと思います。こ こまでお育て頂いた私達が、今、本気で神様の心を心とする時であり、そういう大 きな視野に立っての、私たちの信心でありたいと思いますね。どうぞ。 <合楽教会御理解目次へ戻る> <日本語表紙へ戻る> --------------------------------------------------------------------------