金 光 教 合 楽 教 会 の 御 理 解

平成11年8月29日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第48節
 わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うこと
  を聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。お
  かげが受けられる。


『ままよと思うて放っておくやうな気になって』と言うことは、自分の欲や情を捨
てた姿ですから、神さまに充分の働きが頂ける場を作るようなものです。
その上『信心してやれ』とは、いよいよ信心を進めてゆけと言うことです。
四十八節とは、いつもがおかげのチャンスと言うふうに思います。
常平生がこの気持ちにさせて頂くなら、間違いない御神徳がうけられます。
                                                     (昭51・7・31)


 今、こうやって教祖様の御事跡を辿り辿りさせて頂き、教祖様のご信心が分かれ
ば分かる程、今日の御理解一つとりましても、何とも重みがあるんですね。教祖様
の場合、例えば教えが生まれてきます元というのが、頭で捻り出した教えというも
のではなくて、自ら体験なさって、自分自身が信心なさって、こういう御理解にな
ってきておるわけです。『わが子の病気でも』と言われますが、次々と子供さんが
病気なさいましたでしょう。また、『言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっ
ておくような気になって、信心してやれ』と言われているのも、例えば正神様など、
それこそ、30何回次々と、無心に見えるわけですからね。
 ところが、教祖様が、どういう信心をなさったのか、その肝心なことが、これま
で、実は分からなかったのです。合楽の人たちの場合、信心するということが、だ
いたい出来るようになってきたと思うんですよ。この問題で私が改まりますとか、
成り行きを尊ぶしかありません、というようなことに、合楽の人たちは、だんだん
なってきたんです。でも、これが、大変なことなんです。
 ある教会の奥様がお参りになられまして、深刻な問題をお届けされました。その
時私が、「奥さん、あなたが信心になれば、問題はないよ」と申しましたら、それ
こそ、きょとんとして「先生、信心するってどういうことですか」と言われたんで
すから。この頃も、ある先生の教祖様の講座を2時間くらい聞かせて頂いたんです
が、私は、これでいいのだろうかと思いました。それと言いますのも、その先生が、
教祖様が直面なさいました様々な問題を、ずっと羅列なさいました。そして、「皆
さん、教祖様も私たちと同じところを通ってあるのですから、皆さんもおかげ頂き
ますよ」で、終わったんですね。ただ、教祖様の御事跡が分かったって、何にもな
りません。例えば、正神様の問題の時に、教祖様が、どのようにして、信心になっ
ておられるのか、が分からねばならないのです。
 これは、私がいつもお話ししますが、私が朝の御祈念をする、しみじみと頭を下
げんわけです。その時に、初代がどう思われてますか。いや、これは、初代だけじ
ゃなくて、私が、初代のお手代りをさせて頂いて、これまで17年間させて頂いた
信心でもあります。「今日、若先生が御祈念を奉仕させていただいておる。どうも
姿勢が悪い。こちらから注意しに行きたいような感じがする。私なら、御神前にぬ
かずかせていただくと、頭を下げられるなら、これ以上もっと下げたい思いがする
ところですね。けれども、若先生は、ちょうど手で支えたような感じでした。まる
で蛙が座っているような感じです。頭を下げん。そういう時に、私の心がですね、
ちょっといらいらするのです。こと、信心のことに関しては、私はいつの場合でも
そうです。けれども、その次ぎの瞬間にですね、「私から見る若先生の姿勢は悪い
けれどもです、神様がご覧になる私というものは、神様の前には、あのようなもの
ではなかろうかと思うた。そしたら若先生の姿ぐらいのことじゃない、私自身の姿
勢を正さなければならないなあと思うたら、次の瞬間、若先生が御神前にぴったり
と頭を引っつけて、御祈念するんですからね。若先生じゃない、結局、私の姿なん
だ。……生神に向かう道とは、そういうような日々であらなければいけない。……
そこから、自他ともにおかげが受けられる道も開けてくるし、私の心はいよいよ神
に向こうていくことになるのです」ということです。本当に、ここが分からなかっ
たと思うんです。教祖様のご信心を辿ると、いつも問題を通して、一段信心を進め
ておられます。問題のおかげで、力を受けておられます。私は、今日改めて、この
「信心してやれ」という内容が、金光教の中で分かっていなかったと思うのです。
金光教だけじゃなくて、宗教全体が分かっていないのです。
  ここ1、2カ月、不思議に、私の中にずっとキリスト様が関って見えるんです。
これは、一体何だろうか、神様が私に何を伝えてくれと言っておられるのだろうか、
と思います。例えば、人類二千年の歴史を総括するというなら、西洋文明の総括を
しなければなりません。西洋文明の根源は、キリスト教文明なんです。そういう意
味で、キリスト様が、何を私たちに訴えておられるんだろうか、神様が、私たちに
何を分かってくれとおっしゃろうとしているのかということを、分からせて頂きた
いと思います。
  教祖様は、実際信心をなさった方です。けれども、教典を何千回読んでも、教祖
様がどんな信心をなさったか、絶対分からないです。だから、その時に、初代の信
心の歩みを見たら、よく分かるよと私が申すのです。どう申しましても、お互いが
助かりの実証を頂かなければなりません。そういう意味合いで、大変な使命を感じ
ながら、一つ信心のけいこをさせて頂きたいと思います。どうぞ。



平成11年8月22日 和賀心デー御理解(親先生) 御理解第39節  此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。 家業の内容が行になるとき、家業により徳を受けてゆける道である。 勿論、内容は心行に通ずるものでなければならぬ。 合楽において表行全廃のおかげをうける様になって七年、いよいよ「心行 信行 家業の行」に取り組むことになった時点より教会の比礼ハ倍増している。 ちなみに 火や水の行によるおかげは質屋で金を都合するようなもの。 心行、家業の行ハ自然の恵みで都合がつくようなもの。                            (昭56・7・30)  今、教祖様のご信心をたどらせて頂いていますが、それは、そのまま、教祖様の 助かり方を辿るということになるわけです。そうしますと、教祖様は、家業の行の 中で、お徳を頂いた方であり、家業の行の中で、凡人が生神になった方だというこ とが、いよいよはっきり分かります。そういう意味で、このお道は、家業の行一本 でお徳が頂いていける道です。しかも、「心行、家業の行ハ自然の恵みで都合がつ くようなもの」と言われるように、そのものの整い方というのが、願い以上のおか げになってくるのには、驚くばかりです。  教祖様のご信心の大きな特色の一つに「時節を待っておかげを受けるがよい」と いうことがあります。先日から、教典を読ませて頂いていて、そういう言葉が、何 箇所位出てくるんだろうかと思うて、調べてみました。そうしましたら、「先を楽 しめ」というのは、102出てきてます。そして、「末の楽しみ」というのが、5 0あり、「時節を待て」というのは、34あるんです。だから、問題は、なぜ、そ の時節を待たれたのか。どうして、先を楽しむことが出来られたのか、です。それ を合楽的に言うと、成り行きの確信なんです。成り行きの確信が、「先を楽しめ」 とか、「時節を待っておかげを受けるがよい」ということになってこられた、と思 うのです。  教祖様も、問題がある度に、力を落としたり、心配をされたりしておられますよ。 これなんかが、ひとつのキーワードになると思いますけれども、教典の113ペー ジを開いて下さい。その16に、『一つ、金子のこと心配いたしても、ここでは間 に合わんと申して、浅吉へ手紙ことづけてやれ、と仰せつけられ候』とあります。 正神様がお金を貸して下さい、と言われるんですが、都合がつかんと言うて、手紙 を書けと神様がおっしゃるわけです。そしたら、朝の10時くらいに、『総社未年 女、子供連れてまいり、目、肩願い。私は浅さんの後ろでござります。ご用はござ りませんかと申し』、そして、『此方より幸い手紙頼み』という件があるわけです。 私は、教祖様は、こういうリズムをずっと頂いておられたと思うんです。だから、 神様のご都合の中にあれもあり、これもあり、と確信していかれたのです。  昨日も、そうでした。夜の講座があるんですが、私は、えらい体が熱っぽくて、 体がきつかったんです。誰か代りに、講座をしてもらおうかなと思っていたんです。 そうしたら、あんなことないのに、野中利一さんが、10分くらい前に来て、社長 から、押しやられるようにして、家族旅行をさせて頂き、その中で、置いた物を取 るようにおかげを頂いた、成り行き話をしてくれるのです。しかも、作業服で来て るんです。だから、それこそ、一日汗をかいて、そのまま来たんだなと思うたら、 私は、本当に弾かれるような感動を覚えまして、元気に講座をさせて頂きました。 そういう天地のリズム、成り行きの応援歌を頂きながらですから、先が楽しめるの です。これは、ただ、何とかなるとか、なるようにしかならんというようなもんじ ゃないです。教祖様のこの確信には、本当に驚きますよ。それが、何から生まれて こられたかです。ただ、家業の行一本からです。 これも一つ、見ておいて下さい。こういうことが、たくさん出てくるんですが、 私も、これは、何のことか、まったく分からなかったんです。神様が、何でわざわ ざこんなことまで、お知らせ下さるのだろうかと思うくらいなことです。103ぺ ージの2行目です。そこに、『一つ、子供に申し渡し。反物あっても仕立てな、時 のはやりがあるから。一つ、しま木綿はすな。一つ、白木綿吟じていたし、ためお きよし。一つ、売り木綿はすな』とあります。神様が何で、こんなことまでと思う でしょう。そういう意味で、この神様は、こんな日常茶飯事のことまで、絡みおう て下さる神様ですよ。この神様は、例えば、遊びの中まで、絡みおうて下さる神様 ですよ。特別なありがたい修行をしているとか、御祈念をしているとかという時だ けではないのです。それこそ、どういう中にも絡みおうて下さる神様です。私は、 本当に日常茶飯事の中に、絡みおうて下さる神様だと思います。そういう中から、 お互いが、どう御神意を感じていくのか、です。 ですから、一つお互いが火や水の行ではなく、この家業の行でお徳を頂きました、 家業の行でこうやって、おかげを頂いております、家業の行で和賀心が育ちました、 ということになってもらいたい、と思います。それが実証できたら、前代未聞のこ とになりますよ。本当に、お道は、前代未聞の宗教です。事実、こうやって、皆さ んが、だんだん実証して下さっておるということが、私は、有り難いと思いますね。 どうぞ。
平成11年8月15日 和賀心デー御理解(親先生) 御理解第20節  此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞 かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるが よし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。 言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。 思索から生まれた宗教でもなく、又、奇跡が生んだという宗教でもありません。正 に天地と教祖の交流から生まれた真の宗教です。 真の宗教とは読んで字の如く天地が示したことを教えるのが真の宗教です。 『此方が天地金乃神よりおかげを受けて居る事を話にして聞かすのぞ』とあります。 (昭56・7・11)  ※宗教=「宀」は宇宙、又は自然の意。故に天地が示すことを教えるのを宗教 という。  いよいよ明日、合楽では、桂松平先生の願いを今日に受けまして、和賀心世界布 教御神願成就のお祭りを仕えさせて頂くことになります。今月は、御理解第9節の 「心を広う持っておれ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ」という大 きな御理解を頂いていましたが、今日の御理解を頂いて、私は、神様が「まだ、分 からんか」と言うて下さるようなものを感じるんです。神様と、私たちの合致点と いうか、合点が、もう一ついっていないのかなあ、という反省をさせられておりま す。皆さんの場合はどうでしょうか。明日のお祭りを迎えるにあたりまして、神様 と皆さんの中で、合致点が出来られたでしょうか。  教祖様はご晩年の頃に、「日天四の照らす下、万国まで残りなく金光大神でき」 とか、「昔は神代と申し、今は人代。昔へもどり、神代になるように教えてやる」 というような、真に壮大な願いを持っていかれますね。普通のお百姓さんが、なぜ、 そういう遠大な願いが出来られたのだろうか、と思います。だから、ある先生など は、教祖様は、晩年には、誇大妄想狂になられたんじゃないかというような、過激 なことをおっしゃった先生もおられます。けれども、私は、教祖様の「このお道で 世界を包み回したい」という願いは、切実であられたと思うんです。そうなって見 ます時に、まだまだ、私と神様の願いというものが、一致していないなあと思うん です。 大きな願いということは、合楽の場合、ひとつの苦手分野でもあるんです。合楽 では、徹底して、信心とは、私が助かる以外にない、と習ってきましたし、そのこ とをお互いが、徹底して取り組んでおるわけです。それが、合楽の願いの根拠性な んです。合楽の願いの確かさでもあるわけです。例えば、私のことを思うて見ます 時に、初代のお手代わりをしました時に、「ただ、ただ、私が力を受けたい」だけ で精一杯で、信者さんとか、世界のことなんか、目がいくはずは、なかったです。 ただ、「私が力を受けたい。私が助かりたい」でやって参りました。そして、私の 中で、段々はっきりしましたことは、この合楽理念による助かり方の確かさです。 そこになった時に、「どうでも、この合楽理念をみんなに分かってもらいたい。み んなに伝えたい」ということになり、その階段を上っている時に、教祖様に辿りつ いておるわけです。ですから、皆さんの助かりの実証が、もう一段上って頂かなけ れば、大きな信心には、辿り着かないのだろう、と思います。皆さんが、自分が助 かるということに専念して、そこに、教会のことを切実に願える、金光教のことを 願える、日本のことを願える、世界のことを願える、というように、一つ、階段を 上っていかなければならないなあ、と思います。そういう意味で、どこまで、切実 な願いをもって、明日のお祭りを頂こうとしているのか、一つ反省して頂きたいで すね。 いや、私も反省しました。明日、仕えさせて頂きますお祭りが、どこまで切実な ものとなっているのか、もう一度、見直してみたい、と思いました。毎年、この日 を迎えるために、桂松平先生の御伝記を読み直すんですが、そうしまして、私は、 あらためて驚きました。桂松平先生のご帰幽日はご存じですか、みなさん。初代は、 桂松平先生の「松」という字を見ただけで感動なさってたんですよ。そんなに桂松 平先生に憧念心を燃やされた方なんです。8月13日なんですね。ですから、第一 回目のこの夏のお祭りを仕えられたのが、8月13日なんです。だから、桂松平先 生のあの御本部御造営は行き過ぎだったという人もありますが、それも、大きな目 で見ますと、神様の大きなご計画の中の一つであったということを、私は、昨日、 気付かせて頂いたのです。そして、桂松平先生のご造営に対するあの情熱ですよ。 私たちは、その万分の一もないです。あの情熱は、大変なものです。あの時、身内 の人が、何人亡くなりましたか。自分も死にかかっておられますよ。それでも、 「どうしてでも」という、あの勢いです。情熱です。あれが、不退転というもので はないでしょうか。明日、お迎えさせて頂きます、和賀心世界布教運動ということ に対して、どれだけのそういう情熱があるのか、となったら、本当にこれは足らな かったなあ、と私は、改めて反省させられておるわけです。ですから、明日まで、 もう少し時間がありますので、一つ練り上げてみて下さって、本当に神様に喜んで 頂ける、合致点を頂いての明日のお祭りを頂きたいと思いますね。どうぞ。
平成11年8月7日 朝の御理解(親先生) 御理解第20節  此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞 かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるが よし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。 言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。 思索から生まれた宗教でもなく、又、奇跡が生んだという宗教でもありません。正 に天地と教祖の交流から生まれた真の宗教です。 真の宗教とは読んで字の如く天地が示したことを教えるのが真の宗教です。 『此方が天地金乃神よりおかげを受けて居る事を話にして聞かすのぞ』とあります。 (昭56・7・11)  ※宗教=「宀」は宇宙、又は自然の意。故に天地が示すことを教えるのを宗教 という。  この成り行きを尊ぶという生き方は、日にちが経てば経つ程、その内容中身のす ごさを感じるわけです。今日は、改めて、そのことを神様にお礼を申しあげ、また、 初代に、よくぞ、こういう助かりの道を残して下さっておったものだ、とお礼を申 しあげました。  皆さんも思うてみてください。私たちが、何百年修行して、何百年求め続けても、 まず、成り行きが神の働きなんて、絶対、気づかなかっただろう、と思います。そ して、どうやって生きていいのやら、どういう信心をすれば、神様の心にかなうの やら、何が真の信心やら、分からないままだったでしょう。そのことを思います時 に、よくぞ、初代がこういう信心を残して下さったものだと思います。  そこで、「これを信心の無い人に、どうやって分かってもらうんでしょうか」と いうような思いで、教典を開かせて頂いたら、この御理解でした。ですから、今の 私の実感は、「この方が、成り行きより、おかげを受けておることを話にして聞か すのぞ」ということです。皆さんだって、そうだと思うんです。また、そうでなく ては、普遍性がないです。親先生の言う通りにしておかげを頂いた。特別な御祈念 をして頂いて、奇跡的なおかげを頂いた。それでは、普遍性がないです。そういう 宝くじに当たるようなおかげじゃなくて、それこそ、時々刻々に頂けるおかげです。 先日、北さんが、親教会のご大祭にお参りしようと、バス停に向かったら、ちょ うど、バスが止まったところでした。それで、乗せて下さるだろうと思って走った ら、いじわるのようにして、すーと出発したんだそうです。それで、北さんが「こ れも成り行き、これもご都合」と思うた。そしたら「北さん、北さん」と愛子が呼 ぶんだそうです。「おかげで、暑い思いもせずにすみました」ということでした。 皆さんだって、そういう体験は、四六時中頂いておられると思うんです。成り行き のおかげは、時々刻々、頂けるのです。私は、これは、奇跡以上の奇跡だと思いま すよ。北さん中心に、この天地が動いているじゃありませんか。今日のミニ御理解 で言うなら、「真の宗教とは、読んで字のごとく天地が示したことを教えるのが真 の宗教です」ということです。だから、私は、成り行きを尊ぶということは、まさ に宇宙学なんだと言うんです。宇宙に学ぶ。成り行きに学んでるでしょうが。成り 行きを尊ぶということは、天地の心を心とすることです。 昨日、神崎さんのお届けの中で、最後に、「先生どうぞ、金光教の光にならせて 下さい」というお届けがございました。何か私の中にどーんと入ってくる感動を覚 えました。今月は、大きな信心、大きな心、ということですから、それくらいのこ とは、願っていいと思います。私は、今本当に、世界の光になりたいと思います。 どう考えても、成り行きを神の働きとして尊ぶという生き方は、新世紀光明思想の キーワードになる、と思いますよ。お互い、そういう使命感を持って信心しなけれ ば、もったいないです。金光というのは、暗闇に、稲光がビカビカと輝くようなあ の明るい光、いわゆる金色の光ということです。そういう意味で、皆さんが、金光 の御神号を頂かなければいけません。共に目指しましょう。しかも、それも、初代 が、その手順を言われてます。いわゆる、「信は力なり 力は光なり」と言われま すように、成り行きの確信、それから、確信が力になり、光になるような手順を踏 んでのことでございましょう。  そういう意味で、金光教を現していくのに必要なものは、徹底的に、教祖様が貫 かれた姿勢です。無理がないです。それは、「時節を待って、おかげを受ける」と いう姿勢です。それと、同時に、これも、初代がきっちり教え残して下さっておる ことですが、この止むに止まれぬ思いを現していくなら、「その構えとか、姿勢の 上に現れてくるものは、謙虚だと神様がおっしゃる」ということです。そして、お 互いが、何を伝えていくかということは、成り行きのすごさです、成り行きの威徳 です。これをどうでも伝えて行かなければならない責任を感じます。  この成り行きによる助かり方というのは、本当に日に月に確実な助かり方と広が り方をしていきます。ですから、この成り行きというもののメカニズムといいまし ょうか、その内容の、もっともっと表現ができていかねばならないなあ、と感じま す。今日のご理解を頂いて、改めて、私たちが頂いておる、成り行きによりおかげ を受けておることを話していける、その内容を頂きたいと思いますね。どうぞ。
平成11年8月6日 朝の御理解(親先生) 御理解第56節  日にちさえたてば世間が広うなってゆく。ひそかにして信心はせよ。 『世間が広うなって行く』と同時に自分(みずから)の心を寛く大きくして行く事 である。 ひそかに信心の喜びをじっとおさえて、心の奥に喜びの泉をつくることである。 いたずらに、ただ日にちが経って忘れていくだけでハ、勿体ないことである。 ひとりわが道をゆく (昭52・7・8)  教祖様の御理解をいろいろ分からせて頂きますと、「世は変わりもの」とか、 「先を楽しめ」とかというのが、たくさん出てまいります。たとえば、教典の99 頁の20に、「海川変わり、船着き場所ともなり。世は変わりもの」とあります。 しかも、次に「宮建て屋敷は、此方へ決まり。金光、氏子、先をせくな。おどろき から治まりになり」と言われるように、先々は良い事になるんだという信念です。 何故、こういう事を思うことができられるのだろうか、と思います。安武先生が、 ある外人さんに合楽の話をしたら、超楽観主義だと言われたというんです。私は、 それが実感出来る信心をしなければいけないと思います。また、神前撤去の知らせ が来た時にも、教祖様は、「世は変わりもの」ということをおしゃっています。普 通でいうなら、お先真っ暗と思うような時に、必ずこういう事をおっしゃるんです ね。  そして、今日は、106頁の件に、何故、それをおっしゃれたか、その根拠性み たいなものを感じるんです。これが、面白いんです。正神様の問題が絡まってきて おるのですが、そこに、「六月十九日、苦世話にすな、金光正神の儀安心」とあり ます。正神様の事について、何か気がかりな事がおありになったんでしょう。その 少し先に、「八月十七日早朝、私気がかりごとあり、お伺い申しあげ」とあります。 正神様の問題だと、私は思うんですね。そうしたら神様が、「何事も変わることな し。月と潮の満ち干変わらんから、右(これまで)のとおり」とおっしゃるのです。 これを、合楽的に言いますと、「この天地には、丸うせずにはおかんという働きし かない。億年かけても、人間を幸せにせずにはおかんという働き以外にない」とい うことになります。だから、この天地がある限り、心配する事は要らんよとおっし ゃるわけです。  昨日、久し振りに家内と久留米に出させて頂きました。私は、改めて、日頃、信 心の稽古をしておる事の有り難さをしみじみと感じました。本当に、信心のない人 達というのは、それこそ、ただ生活に追われて生きてますよ。何と無目的に生きて おるんだろう。無意味に無価値な生き方をしておるんだろうと。本当に恐ろしいな あ、と思いました。たとえば、今の世の中は、不景気で、信心のない人達は、お先 真っ暗ではないでしょうか。そして、年をとったら、段々寂しくなっていくのが当 たり前ですよ。それを教祖様は、「信心は、一年一年有り難うなってくる。年が寄 るほど位がつく」とおっしゃるんですから。全く逆な生き方です。ですから、今日 のミニ御理解の中にありますように、「ひそかに信心の喜びをじっとおさえて、心 の奥に喜びの泉をつくることである。いたずらに、ただ日にちが経って忘れていく だけでハ、勿体ないことである」ということになります。 これは、何年か前でしたが、町内でも、知名士の方でした。ところが、ある不祥 事を起こされまして、首吊り自殺をなさったんです。ところが、幸いな事に発見が 早かったものですから、おかげを頂かれまして、夫婦揃うて参ってみえました。そ うしたら、何と、その日の御理解がこれだったんです。ですから、男泣きして、私 の人生をやり直します、という事でした。確かに何カ月ぐらいはお参りしてみえま したけれども、本当に、針路変更が出来たんだろうか、と思います。喉元過ぎれば 熱さを忘れるでは、馬鹿らしいですよ、皆さん。そういう意味合いで、お互いが、 問題がある度に、信心の喜びの格を上げていかなければ、一年一年位がつくという ことにはなりはしません。ですから、お互い、改めて、何を目的に信心しておるの か、そこを一つしっかり見定める事じゃないでしょうか。  宗教というのは、どちらかというと、反社会的なんです。今申しますように、信 心のない人が目指すものと、信心の価値観というものは、やっぱり相違が出てきま すから、どうしても反社会的になるんですね。ですから、そこにトラブルが起こる わけです。天理教の教祖様にしても、12回牢屋に入っておられるんです。ところ が、金光教祖の場合は、一回もそんな事がないんです。それが、何故かと言います と、布教してはいけないと言われると、「はあ、そうですか」と言うて、素直に下 がっておられますもん。「いや、私は、誰が何と言うても、神様の言われる事には 背きません」というようなことがないですもん。だから、実に、いい加減のようで すけれども、教祖様が、何を支えにしてあるか、ということです。言葉にすれば、 結局、成り行きですよ。成り行きが、良いようにしかならんという確信です。この 天地の働きは、有り難い事にしかならない、良い事にしかならない、という確信が お持ちになれているという事です。だから、それなしに、先は何とかなるさ、とい うのとは、違うということになります。「日にちさえ経てば世間が広うなっていく。 ひそかにして信心はせよ」とおっしゃる。このひそかに信心せよ、そこに、お互い が、確固たるものがあるかどうかという事だと思いますね。どうぞ。
平成11年8月5日 朝の御理解(親先生) 御理解第27節  昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸 なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろう が。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておか げを受けるのとは別ものぞ。 親鸞上人ハ 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言うことを残しておられるそう ですが、親神の心をいたいほどとらえたおことばだと思います。 善人悪人を問わず、神さま助けて下さいと言う心をおこしたらお蔭が受けられるの は、氏子助けたしの神願の現われであります。 (昭56・7・18)  教祖様の御事跡を今こうやってたどらせて頂いておりますが、教祖様のご信心が、 分かれば分かるほど、この御理解27節は、教祖様の叫びにも似た御理解だなと思 います。「私も、それこそ、一生懸命に、まじめに実意に生きてきました。けれど も、それと、神信心しておかげを受けるというのは、別ものなんだ」と。  よく世間では、正直者は馬鹿を見ると言われますけど、本当にそう思います。正 直者とか、誠実な人というのを軽く見るわけではありませんけれども、損です。で すから、実意丁寧だけではいけないのです。それに、神信心がついてこなければな りません。ところが、この神信心という内容が分かってないという感じなんですね。 自分の性格で、出来るのと、信心でするのとでは、全然違います。例えば、この前、 恵美子さんが、筑水の信心共励会の時にお話ししていましたことが、信心ですると いうことです。朝、台所に入ったら、スリッパは脱ぎっぱなし、前の日の残骸が散 らかっている。それこそ、今まではどうして、というような責めたてる心があった けれども、今は、「これによって、一徳受けられるんだ。これによって、私の心が 改まれるんだ」と思ったら、もう少し散らかしとってくれてもいい、と思えるよう になった、と言っていました。自分が几帳面だから、掃除をするというような、家 業でそれをするのと、家業の行でするのとは、違うのです。  今までの宗教観念の中に、信心する者は、どうしても善人を目指そう、というと ころがありましたが、信心というのは、人格作りじゃないのです。神格作りです。 だからというて、立派な人間になったらいかんというのじゃないですよ。確かに神 信心ができたら、実意丁寧さも身についてきます。要は、信心で形成されてくると ころの人格です。  教典の633ページを開いてください。これは、津川治雄さんの伝えです。例え ば、教祖様は、山伏事件でも、10年間、迫害に会われます。または、正神様の問 題や棟梁さんの問題でも、ただ、辛抱力が強いとか、堪忍の強い人とか、というぐ らいでは、あれだけのことは、受けられないです。そこで、それを信心で受けると、 ということになるんですが、その具体的なことが、この19になります。「これく らいのことは、神様のお力でお払いのけになることはわけはない。それなのに、そ のようにたびたび来るのは、神様がおやりなさるのであるから、私はいっこうに腹 は立てない」とおっしゃるんです。だから、神様の働き、成り行きの中に起こって きているということならば、何回でも受けられるんです。本当に力が受けたい、お 徳が受けたい、というならば、もうちょっと問題が起こってこないだろうか、とい う気になりますよ。もっと言えば、その20です。「津川さん、あなたもよく堪忍 なさる。神様が感心しておられる。それでなければならないが、もう一つ進むがよ い」このへんの教導ですね。堪忍というのは、信心辛抱とは違います。これでは、 損です。例えば、誠実な人とか、辛抱力の強い人ほど、人を責めるのです。逆に、 だらしがない性格の人とか、自分が最低と思う人は、人を責めないです。そして、 神様の目から見たら、ものごとを良い方に良い方に取る人を善人といわれ、悪い方 に悪い方に取る人を悪人と言われるのです。だから、自分の性格とか、自分の辛抱 力で、やっておる人というのは、そういう傾向が強いでしょう。だから、私が、損 だと思うんですね。「どのようにでございますか」「あなたは、腹が立ってもこら えてこらえて、それを腹の中へおさえこんでおられる。それではわが体をこわす。 もう一つ進んで、腹の立つことを知らないということになるがよい」とおっしゃる。 腹が立つことを知らないということは、どういうことなんでしょう。どういう頂き 方を教祖様がなさったのでしょうか。ここのところになりますと、初代の言葉に変 えなければ、その真意がわからないと思うんです。教祖様は、こういう表現をなさ っておられます。「『これは自分が犯した罪のめぐりか、先祖が犯した罪のめぐり であろう。これで、一つめぐりを取り払ってもらうのだ』と思うがよい」と。これ では、あまりピンとこないでしょう。これを初代的表現に変えますと、「どうして という心におかげはなし、こうしてという心におかけがある。こうして育てて下さ る。こうしてみがかして下さる。こうしてあらたまらして下さる。こうしてめぐり のお取祓いを下さる。と頂くところから『有難し今みかげを』ということになるの であります」これが、神信心ですよ。これが、信心で受けるということです。本当 に、信心で受けると、いよいよありがたくなっていきます。疲れをしらないです。 ただ、自分の性格でする。自分の辛抱でする。疲れます。やっていることは同じで も、一方は、めぐりを積むし、一方は、お徳を積むというのですから、大変な違い です。信心でするということ、信心して、おかげを受けてくれよということです。 どうぞ。
平成11年8月4日 朝の御理解(親先生) 御理解第50節  とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、 肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。 世間では「金の成る木があるじゃなし」というが、お道の信心は金の成る木だけで なく、人間の幸福の条件の一切が成就(なる)徳の道である。 『肥をせいでもひとりでに物が出来るようなものぞ』と教えられる所以である。常 平生、根を肥やしておかねばならぬ。 根とハ心の根、家の根、天地の根。天地への還元が大事である。 (昭46・7・1) ※家の根とは親先祖のこと  昨日は、親教会の夏の祈願祭でしたが、参拝させて頂いて御霊様に御祈念させて 頂いたら、途端に神様から、「道の道たるお祭り」ということを頂くんです。この お祭りは、桂松平先生の本部造営という熱願が発端になっております。もう既に本 部のご造営は、済んでるわけですから、もし今日、桂松平先生がおられたならば、 どういうお祭りをされるだろうか、と思うわけです。教祖様が、この夏のお祭りを 仕えられるならば、どこにその願いの焦点をおかれるだろうか、と。そういう意味 合いで、私は、この夏のご大祭の意義は、和賀心世界布教運動、と思います。それ こそ、桂松平先生は、生き変わり、死に変わりしてでも、この天下の名教を世界万 国に広げずにはおかん、と願われたわけですから。また、教祖様は、「日天四の照 らす下、万国まで残りなく金光大神でき」という壮大な願いを持たれたわけですか ら。  そういう中で、今朝、「どうしたら、天地金乃神様の御威徳を現しえるんだろう か」と願いながら、教典を開かせて頂いたら、この御理解を頂きました。ここで、 ミニ御理解で「世間では『金の成る木があるじゃなし』というが、お道の信心は金 の成る木だけでなく、人間の幸福の条件の一切がなる徳の道である」と言われてお ります。これは、実際、大坪総一郎が、現してくださった世界なんです。それは、 どういうことかと言いますと、大変厳しいご修行時代に、神様から、「鎌を持って、 山に入れ」と言われる。ところが、丸裸の山です。昔は、鬱蒼とした木があったの ですが、先祖の人たちが、次々と、伐採してしまったのです。「そこに、信心の種、 喜びの種を植えていけ」と言われて、それを実行なさったのです。  昨日は、星野の池上先生のお話でしたが、先生とは、親教会で、1年半ほど、一 緒にご修行させて頂きました。先生の性格もよく知ってます。本当に、裏表のない 先生ですし、性格的にまじめです。私は、性格的にだらしがないし、ふまじめな性 格ですけれども、本当に実直な先生です。池上先生のお父さんという方が、「どう でも、この教会の継承者を頂かなければならない」というので、星野川で水ごりと って、祈願をなさったのです。そうしたら、「何月何日に男の子が生まれる。名前 は、善之(よしゆき)」ということを頂かれます。実際、そういうおかげを頂かれ ました。そして、いろんな経緯の中で学院に行かれましたが、体を弱くして、お道 の教師をやめよう、と決意して、三代金光様に、お初穂を包んでお届けに行かれる んです。ところが、三代金光様が、こっちを向いて、お初穂を受けとろうと、ぜん ぜんなさらないそうなんです。10分、20分たっても、返答がない。もう、いた たまれない思いで、学院に帰ったと。そうしたら、当時の学院長が、高橋正雄とい う方で、「池上先生、あなたは、大変な願いをかけられてお道の教師になったんで すよ」と言われ、改めて、「もういっぺんお道の教師として、おかげを頂きたい」 と思うて、とってかえして、三代金光様のところに行かれたら、今度は、にこにこ して、「信心には、辛抱が一番大切です」とおっしゃったわけです。その話を聞き ながら、「一人一人に、そういう大きな願いがかけられておるんだ」と改めて思い ました。 ただ、問題は、ここなんです。せっかくお道の教師として、お取り立てを頂き、 お取り次ぎの御用に使うて頂くならば、教祖様がおっしゃる、「人が助かることさ え出来れば」との一念を燃やして、そこに生きがいを感じさせて頂くことです。そ の根本になるものは、「私でなければ出来ないことがあるんだ。そのためには、神 様にどのような無理難題を言われても、それが好きですることでありますから、い といません。また、神様に誰よりも愛されているんだ」というところから、神様の 前に無条件の降伏が出来る、ということなんです。私は、最近、それを感じるんで す。私のようなものでも、神様が使うてくださると実感できるから、喜び勇んでの 御用が出来るのです。「この御理念ってなんだ。こんな助かり方があるのか」と、 私が、確信するから、何とか、この御理念を伝えたい、また、その元である、教祖 様を分からなければならない、ということに、今なっておるわけです。 あなたは、選民の中の選民です。だから、問題は、そこに、お互いがいつ目覚め るかでしょう。地を肥やせという地とは、生まれつきの性格ということだそうです。 一人一人、地が違います。だから、その地を磨けばいいんです。そうすれば、私に しか出来ない御用、私にかけられた神様の願いということに目覚めてくるはずです。 いよいよそういう意味合いで、私たちが、天地の親神様の御威徳を発動させねばな りません。その信心内容がこの御理解50節の中にあると思いますね。どうぞ。
平成11年8月3日 朝の御理解(親先生) 御理解第34節  ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよ いようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝 手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。あり がたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を 改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。 神と氏子の真実がぶつかり合う。火花を散らすほどのものがあって、はじめて真の 神の真実にふれることが出来るのである。 浪花節の文句ではないが   女は客に惚れたと云い 客は来もせで又来ると云う   うそとうそとの色里で 恥もかまわず身分まで   よう打明けてくんなまんした そこから、相手の真実を射止めたようなものではなかろうか。 私共の場合、神さまに嘘や掛け引きがあるようなことはあるまいか。 実に神に一心とは迷いのない事ぞ。 (昭45・7・16)  私は、今の合楽には、神様が、御自身の本音の願いを打ち明けて下さっていると 思います。いわゆる方便抜きです。今日のミニ御理解に、「神と氏子の真実がぶつ かりあう」とあるように、神様も、駆け引きぬきで、教導しようとされているとい うような感じがしてならないのです。 教祖様の場合、その信心の過程の中で、神様が、方便を使うて教導なさる時代が あるわけですが、それこそ、方便抜きの教導が始まったのが、明治4年頃くらいか らですかね。明治6年が、いよいよ本当の神様の願いがあらわれる、すなわち、天 地書附が下がった年です。その2年前、明治4年に、『未七月二十四日お知らせ。 運気、運勢、普請、作事、方角、縁談、宅がえのこと、理解でよし』というお知ら せを頂かれます。ここから、神様の「理解」が始まるわけですね。  初代は、『信楽』の中で、「どうすれば和賀心を、どうすれば人間が幸福になる ことが出来るであろうか。それは、和賀心を普遍的な原理にまで高めること以外に ない。人間の知恵、力での限界まで至っても幸福はつかめないことを、お互いに確 認し合わねばならぬ」とおっしゃってるんです。私は、教祖様にしても、初代にし ても、普遍的な助かり方、いつでも、だれでも助かる道はないものか、と模索し続 けられた御方だと思います。ただ、私が御祈念して助かった、ということでは、必 ず行き詰まります。そこで、普遍的な助かり方ということになった時、教祖様の場 合、「おかげは和賀心にあり」ということになっていったわけです。ところが、今 日の御理解じゃないですけれども、そんなことは、だれも聞いていないんです。合 楽だって、この頃まで、本当にそうだったでしょうが。最近、私が、ありがたいと 思いますのは、皆さんが、成り行きを尊ぶということを本気で、取り組みだしたと いう感じがするんです。成り行きの中に生かされ、成り行きの中に、信心の驚きと 喜びを感じていっておる人たちが、だんだん育っていっておるということです。 昨日、デューセック先生が、いろんなお届けをされました。その中で、今のアメ リカ社会に、この成り行きを尊ぶという生き方を持っていったら、どうなんだろう、 と思いました。それこそ、袋叩きにあうかもしれないなあ、と。例えば、アメリカ は、弁護士だけで、30万人いるそうですよ。日本が2、3万だそうですね。例え ば、交通事故を起こすとか、夫婦の問題とか、ちょっとしたことでも、弁護士が来 るそうです。だから、何かあったら問題にして、お金を取り上げるというのです。 この間も、泥棒が屋根から落ちて、「家のつくりが悪い」ということで、家をつく った業者と裁判沙汰を起こして、泥棒が勝ったそうです。笑い話のごたるですね。 そういうアメリカの社会情勢の中に、この黙って治めるとか、成り行きを尊ぶとか、 ということを持っていったら、大変な反発を受けるだろう、と。それを思いました 時に、初代が言われる、「人知人力を尽くしても幸せになれないということを確認 するまで」待たなければならないのだなあ、と思いました。 昨年の暮れの報徳祭の前夜祭に、初代が、「今までの宗教の過ちは、広めよう広 めようとしたことにあったんだよ」と言われたんです。だから、私は、この合楽の、 成り行きを尊ぶとか、黙って治めるということは、押し付けじゃだめだ、と思いま す。そして、デューセック先生が布教したら、「神様にも縋った、この信心もして みた。人知人力の限りも尽くしました。それでも、助かりませんでした」という人 達に、「こういう生き方もありますよ」という伝え方をしていくべきだ、と改めて 思いました。そして、人知人力の限りを尽くしても、幸せになれないということを 確認する時代が、もう目の前まで来てるんです。 そういう意味合いで、この21世紀というのは、本当のものが出ていく時代、ま た、神様の本当のことを分からせようとする働きが始まってくるだろう、と思いま す。そのためにも、お互いが、信心の実証を積み重ねていくと同時に、「なぜ、成 り行きを尊ばねばならないのか、なぜ成り行きを尊んだら、幸せになるのか」を、 体系的に説明が出来るようになっていてもらわなければ、困るんです。これは、私 たち合楽の責任において、どうでもそこのところが確立されていかなければならな いんじゃないでしょうか。そういう意味で、ようやく、神様の真実と私たちの真実 が一つになる時代を、迎えておるような気がいたします。どうぞ。
平成11年8月2日 朝の御理解(親先生) 御理解第9節  天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持って おれ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ。 せまい心で大きな願いをたてても無理なはなしです。先ずハ広い心を願い、その修 行をせねバなりません。 だまって治める信心、即ち土の信心。 心ハ自ずと大きく広く豊かになってまいります。清濁一如の信心もわかります。 大願の氏子の上には特別の 親神さまの働きが受けられます (昭55・7・31) 昨日と同じ御理解を頂きましたが、神様が、何を私達に分かれと言うて下さって いるのかですね。実は、それが、私の今の思いと符合しているのです。お互いが、 余りにも現実の生活に追われています。それが、生身の人間でもあるわけなんです が、時々は、お互いが、現実離れするというか、大局的に、私達の生きるというこ と、私達の信心ということを、見なければならないと思います。 宇宙飛行士が、初めて宇宙から地球を見た時に、「あの暗黒の中に浮かぶ星、そ の星の中で生活しておる私達の現実生活というのは、いったい何だろうか」という ような、カルチャーショックを受けるそうです。お互いが、あれをしたい、これを したい、例えば、美味しい御馳走を食べたいとか、思うわけです。それが、宇宙的 視野から見て、なんぼのものなんでしょうか。何百億の財産残したからというて、 宇宙的視野から見れば、大した事ではないのです。私どもは、本当に、無意味なも の、無価値なものに、一喜一憂しすぎると思うんです。 今月は、大きな信心、大きな願い、大きな心というものを焦点にしたら、どうだ ろうか、と思います。例えば、今日の御理解でも、ただ、宗旨嫌いをせんと言うだ けではなく、天地金乃神様という方は、例えば共産主義がいいとか、資本主義がい いとか、○○教がいいとか、そんなことはないです。そういう広範囲な頂き方をす るべきだと思います。いわゆる清濁一如なんです。 先日、佐田さんが、ある問題を頂いて、「今までまったく気付かなかった、広大 なおかげの中にあるんだということを気付かせて頂いた」とお届けされました。そ の問題というのは、心が重くなるような問題なんです。その時に、私が実感として 頂いたのが、"光と闇の中に、新しい命が生まれる#ということでした。皆さん、ひ とつ思うてみて下さい。そういう一つの理がありますよ。例えば男と女、全く異質 なもの同士が一つになって、子供が生まれる。右手と左手が合わさって、音が出る。 また、海の水と、川の水がせめぎ合うところに、多種多様な魚が棲んでいます。新 しい命が生まれるのは、異質なもの、清と濁の真ん中です。 そういう意味合いで、宇宙学というのは、宇宙に学ぶ、宇宙の心を心とする生き 方です。成り行きを尊ぶということは、天地の心を心とする生き方ですから、実は、 宇宙学なんです。初代が、「宗教とは、この天地宇宙が示す事を教える」と言われ ましたが、これが、本当の宗教だと思います。ところが、どうしても、スーパーマ ン的に神様を扱うわけです。または、霊験奇跡の方に目が行き出すから、宗教がお かしいぐあいになっていくのです。だから、今までの宗教観をかなぐり捨てなくて は、本当の宗教というものになってこないと思います。 お互いが、この宇宙学に基づく時、人間を幸せにせずにはおかん、育てずにはお かんという働きに、お互いが乗っていくことになるわけですから、繁栄しないはず がないんです。良い方に良い方にならないはずがないんです。その確信をお互いに 持ってもらいたいと思います。昨日一日の中にでも、この成り行きの中に生かされ、 成り行きの中で、物事が整うていくということが、こんなにも有り難いのですかと。 これは、本当に皆の実感なんです。 そういう観点から、この明治8年の、例のくぼみの絵を見て下さい。まさにこれ は、「世界はわが心にあるぞ」の図に見えてくるわけです。こういう確信をどうし て、教祖様がお持ちになれたのだろうか。いや、私の今の気持ちなら、それが分か ります。本当に、「この成り行き一つで、世界が変わるんだ」と、私も確信できま す。これは、実は、134ページにつながってまいります。明治10年のことです が、当時、大谷村の中で、この神様を村の神様にしたいという動きがあるんです。 そういう背景の中で、教祖様は「あとで神様お知らせ。氏子は大谷村の金神社と申 し。天地金乃神、生神金光大神、日本開き、唐、天竺、おいおい開き。右のとおり に説諭いたし」と書いておられます。教祖様は、この神様は、そんな小さな神様じ ゃない、日本国中、世界に広がっていく神様なんだと確信なさっておられるわけで す。いや、それが実感できるんです。この成り行きを尊ぶという生き方をしていけ ば、誰でも、成り行きが、私一人のために動いて下さっておるというように思える んです。またそうなんです。神様はあなた中心に動いて下さるんです。そうなった 時に、ものの価値観、何が大切なのか、というのが、はっきりと見えてまいります。 昨日、今日と同じ御理解を頂いて、神様が重ねてという時は、皆さんひとつ本気 で、「何を神様が言いたいのか」を思うてみなければなりません。お互いが、あま りにも日常茶飯事のことで一喜一憂しすぎています。ひとつお互いが、現実離れし て頂いて、もう一ぺん、私たちの生活の有り様、信心の仕様というものを見て頂き たいと思いますね。どうぞ。
平成11年8月1日 月例祭御教話(親先生) 一介の名もないお百姓さんが、様々な難儀に出会われ、根限りの実意を尽くされ て生きられました。けれども、この神様に出会う前は、「神仏願いてもかなわず、 いたしかたなし」と言われたように、助からない。そういう中に、この神様との出 会いを頂かれまして、お道が生まれ、今日このように、百何十年の歴史を経てまい りました。そのことが、私にとりましては、大坪総一郎の信心に繋がってまいり、 ここに、私どもがその縁に繋がりまして、おかげを頂いております。  私は最近、「こんな助かり方が、あっただろうか」と思うのです。教祖様が、事 ある度に、「みんなが生神、生神と言うけれども、私は生神じゃない。肥かたぎの 百姓だ」と言われたんですが、これは、本当に「普通のお百姓の私が、こう助かっ た」という感動ですね。今日は、何か「平人なりとも比礼」ということに感動させ て頂くんです。ある時、初代が、研修の時に、「合楽の信心で目玉商品は何と思う か」と尋ねられました。その時に、成り行きを尊ぶ事ですとか、いろいろ出たんで すけれども、そんなものは、そんなに安売りしたくないとおっしゃるんです。そし て、合楽の目玉商品は、「生身の人間が、生身を持ちながら、そのまま助かってい ける」ということだ、と。教祖様こそ、平人の身でありながら、普通の生活をして、 そして神になられた御方です。  今朝の御理解が、御理解第9節でした。普通の方が、こういう願いが持てるとこ ろまでお育て頂かれてるんです。驚きますよ。「世界はわが心にあるぞ」とは、ど ういうことかといいますと、初代が、「この世界が、私中心に回っておるとしか思 いようがない」と、よくおっしゃったんですが、それですよ。今の私が、それを実 感するんです。今日は、幾人もの方が、この成り行きの中に生かされ、成り行きの 中で生活させて頂いておることの喜びを聞かせて頂きました。ようやく、合楽の中 で、成り行きの比礼が見え出した、という感じがします。昨日お参りになった方が、 肺ガンの宣告を受けておられたんです。私が特別に御祈念したとか、そんなことじ ゃ全くないのですが、ただ、それを成り行きと頂いただけで、ガンがなくなるんで すから。  今朝の御理解を頂いて、今月の信心の焦点は、大きな信心、大きな心にさせて頂 きたいと思いました。合楽が布教して、来年で五十年になります。金光教が独立し て、来年が、ちょうど百年になるんです。そこで、昨年の暮れに、金光教ルネッサ ンスというテーマで研修会を持って、合楽五十年の総括、金光教百年の総括をさせ て頂きました。そして、私が最近思うておりますのは、どうでも人類の二千年の歴 史の総括もしなければいけないんだなあ、という感じがしております。初代が、 「どうしたら私達が幸せになれるか。それには、和賀心を普遍的原理にまで高めな ければならない。そのためには、人間の知恵、力では、幸せになれないということ を確認し合わねばならない」とおっしゃってるんです。人類が、それこそ大変な人 知人力の限りを尽くして、数千年きたんです。そして、幸せになれたでしょうか。 なれてないんです。それこそ、豊かになればなるほど、私達の心が枯れていってお るというこの事実は、もう認めていいんじゃないかと。  そういう意味合いで、いろんな思想、主義、いろんな宗教が出てまいりましたが、 私は、既成の宗教なら、一遍、なくしたがいいと思います。私は、今までの宗教で いいことは何にもなかったという結論が出たんです。争い事の原因は、全部、既成 の宗教なんです。確かに、その時代、時代には、素晴らしい宗祖、教祖という方が 現れて、人類を導いてくれたんです。ところが、残念ながら、皆が求めるものは、 ただおかげだったわけです、奇跡であったわけです。だから、どんどん変な具合に なっていったのです。ですから、私は、初代が教えられるように、「宗教とは、天 地自然が示すことを教えるものでなくてはならない」と思います。それは、そのま ま天地の心です。そして、成り行きを尊んでいくところに、天地日月の心が育つよ うになってるんです。  先日、NHKで、歌舞伎の市川猿之助さんの講座を聞かせて頂きました。一番最 後に締め括られたのが、変わるもの、変わらないもの、変えねばならぬもの、変え てはならぬもの、ということでした。私は驚いたんです。久保山豊先生という方が おられましたが、この先生のおかげで、初代のお話がずうっと収録されてるわけで す。合楽に移るその年に、交通事故で亡くなられました。そして、一週間目ぐらい に、私の夢枕に立ちまして、木の枝で、オブジェ風に書いて下さったのが、「変え ねばならぬもの、変えてはならぬ事」ということでした。私は、破壊主義の相があ るそうです。ところが、ある時、初代が、「勝彦のこの破壊主義の相を、神様が利 用して下さる日が必ず来る」というお話をされました。私は今、自分の性格にお礼 が言えるというのは、そういう事も含めてなんです。  今月の16日は、合楽で夏の大祭が仕えられます。これは、桂松平先生が、御本 部の御造営を願われ、発願されたお祭りです。ですから、今日、もし桂松平先生が おられるならば、どういう願いを立てられるだろうか、ということに思いを致しま して、合楽では、5年前から、和賀心世界布教運動の御神願成就のお祭りとして、 仕えさせて頂いております。私は、今日改めて、お互いが、ただ日々の生活に追わ れる生き方から、神様の願いに添えるような信心、それこそ天地の心を心とするよ うな生き方を目指させて頂いたらどうだろうかと思います。大変大きなことを申し 上げたようですけれども、私が、この成り行きを尊ぶという生き方をさせて頂いて、 もっと大事な事が見えてきた、神様の思いが分かってきた、という感じがしてなら ないのです。どうぞ。
平成11年8月1日 和賀心デー御理解(親先生) 御理解第9節 天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持って おれ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ。 釈迦もキリストも天地金乃神さまの氏子であることがわかってみれば、心を広うも ち『世界はわが心にあり』の気概を持って信心の稽古をさせてもらう心の姿勢が必 要であります。 其の願いの第一は「神願成就」であります。 天地金乃神さまの願いが地上に成ることです。私共の身上にかけられる神の願いが 成就することをもって、神の願いとされるのです。 ここにはじめて神も助かり氏子も立ちゆくおかげの顕現とはなるのです。 (昭44・7・26) 今中国で、法輪功かなんかという宗教団体が、問題になっております。まあ指圧 というか、体操で病気が治る、というようなことが、余りにも拡大し過ぎて、最初 のうちは良かったんでしょうけれども、段々その流れというのが宗教的になって、 国がそれを弾圧しかかっておるというのです。中国は、共産党という一党主義です から、他のことを許さないという、お国の事情というのもありましょう。  私はそれを見せて頂きながら、既成の宗教というのは、一遍、崩壊したがいいな あと、本当に思いました。宗教というのは、本当に恐いですね。その法輪功でも、 「病気が治る」というのが、段々、主流になってきて、それを創設した人なんか、 もう神様のように、みんなが言うわけです。そこらへんからおかしくなっていきま すね。ですから、皆が、「病気が治った、お金儲けした」というところに目がいく から、宗教がおかしくなってくるのです。そういう意味合いで、初代が「宗教とは、 宇宙が示すことを教える」とおっしゃったように、これが本当の宗教ですよ。  ですから、大変大きな事を言うようですけれども、私は、一遍、本当に、人類二 千年の歴史の総括がいると思います。そういう意味合いで、今までの宗教ならば、 一遍、壊したがいいと思います。そして、私は、それこそ宇宙学というものを作る べきだと。これは、天地の心を心とした学問です。宇宙の心を心とした学問ですよ。 たとえば、今日の御理解を頂いて、それを尚思うんですが、視野が余りにも小さい というか、余りにも、この神様を小さくしてしまっている。ただ病気治しの神様、 ただお金儲けの神様というように、この神様を小さく小さくしていないだろうかと 思います。  中国という国は大変大きな国ですから、今の文化がまだ及んでいない、取り残さ れた少数民族というのがあって、そこに日本人のカメラマンが初めて入ってるんで す。その民族の中に千年間、それこそ生命のようにして、大事に守っておるものが あるのです。それは、ある一つの宗教と言うんでしょうか、たとえば結婚式なんか があると、悪魔祓いというか、そういう儀式の有り様というものを、先祖伝来とい うことで死守しているわけです。もうそれは漢字より古いんだそうです。だから、 たとえば私達が、合楽理念を伝えたい、残したいと言っているけれども、そういう 無意味な、無価値なものにしがみついておることはないだろうか、と思うてみなけ ればいけません。  そうしてみて、しかも視野が世界的、宇宙的に広がってみても、この成り行きを 尊ぶという生き方は、何億年経っても、どこへ行っても、たとえあの世でも、私は 通用するものだと思います。ですから、この成り行きを尊ぶということは、いろん な視野から見て、私は確かに、二十一世紀に残るものだと思います。今日は、大変 大きいことを言うようですけれども、ただ問題は、実感なんです。神様が私中心に 働いて下さるという実感があるかどうかです。たとえば昨日、夏期信行成就御礼会 で、突然、末永静行先生が話すことになりました。私達の場合、話を聞いて助かる というのなら、また、お話をさせて頂きながら、私がおかげを頂くわけです。です から、そういう場があるということは有り難いことです。そうしましたら、彼が、 淡々と話し出したんです。静行先生にとっては、今度の夏期信行は、自分中心の夏 期信行と思うたはずです。病気した事もない彼が、はじめて病気したんですから。 初めて、人の痛み、弱みというものを分からせて頂いたと言っていましたね。そし て、昨日のミニ御理解が、何でしたか。「痛いのが治ったのでありがたいのではな い。いつもまめながありがたいのぞ」と。静行先生の為の夏期信行じゃありません か。私が、今度の夏期信行期間中に、神様から頂いたことの一つに、「成り行きが、 お互いの生活原理になる」ということがありました。どうですか、皆さん。成り行 きが、お互いの生活原理になっていますか。昨日、静行先生の発表では、成り行き に対して、体が自然とそうなってしまうんですと言いましたよね。本当にここまで、 成り行きというものが身に付いた時に、私中心に世界が回っておると実感出来れる んです。  今日は、改めて、成り行きは神の働きという事が、どれほどしのものか、一つ大 局的に見てもらいたいと思います。私は、この成り行きは神の働きということは、 「二十一世紀の光明原理」というか、間違いなく二十一世紀の指標になると思いま す。ですから、私の願いが、たとえ一滴でも、それが世界に通ずるという一つの手 応えを頂いて、この十六日の和賀心世界布教運動の御神願成就の御大祭に、お互い が参画させて頂きたいと思いますね。どうぞ。 <合楽教会御理解目次へ戻る> <日本語表紙へ戻る> --------------------------------------------------------------------------