金 光 教 合 楽 教 会 の 御 理 解

平成11年7月7日 朝の御理解(親先生)


御理解第21節
 信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中にお
  っても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯が
  なければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。


    信は力なり  力は光なり
    信により人が助かり  光は世を潤す
    現世まさに世界が闇なりの様相を感ずる
    闇夜にも等しい今の時代に
    信の力を以て  光を以て  社会に奉仕しよう
『信心せよ信心とはわが心が神に向ふのを信心と云ふのぢゃ』『氏子に信なければ』
の信を得るには、すべてのことをすべて神に祈り、神にまかせることから信が生ま
れる。
『わが心が神に向ふ』とは其のようなことである。         (昭45・7・3)


 お互いが、何を信じて生きるかということになります。信者ということは、結局、
神様を信じて生きる者ということになります。ところが、神様を信ずるというても、
本当に、あやふやだと思うんです。それでは取次者を信ずるというても、これも当
てにならないと思うんです。いや、それは、初代みたいにああいう素晴らしい方を
取次者として頂いた時には、救われるわけですけれども、限りある人間を信じても、
その方が亡くなったら、今度は何を支えにするのでしょうか。
 今朝の御祈念中に、ずうっと心に浮かんでまいりますのが、「成り行きを尊び受
ける生き方を 学びて永遠の生命とぞせん」ということでした。この「成り行きを
尊び受ける生き方」というのは、これならば、永遠のものです。これは、例えば百
年後だろうが千年後だろうが、あの世に行こうが、しかも、問題の性質を越えて、
また人種を越えて、この成り行きというのは、起きてくるわけですから。今合楽で
は、この「学びて」ということを、合楽理念講座という形で、学ばせて頂いておる
わけです。
 初代が、終戦と同時に、丸裸同様で引き揚げてみえて、「本当に今までの生き方、
今までの信心では馬鹿らしい」と悟られます。そこから初代の信心が始まるわけで
す。ここで「信心せよ」と言われるんですけれども、初代の信心はそこから始まる
んです。皆さんの場合は、どうなんでしょうか。昨日のミニ御理解で、「信心にな
らぬと、売れた売れないばかりが問題になる。人の足元ばかりが問題になる。人の
目ばかりが問題になる。痛いかゆいばかりが問題となる」と頂きました。そうして
みると、私どもは、信心していないと言われても、仕方がないですよね。そして、
わが心が神に向かったらどうなるかです。その問題の向こうに神の姿を見る、神の
声を聞くことが出来る。この問題を通して、神様が、これを分からせて下さってい
るんだ、ということになるわけです。
 初代が、終戦で、「本気で信心してみよう」と、神様に願われました。そして順
風時代を通られ、逆風時代を通られ、「右と願えば左、左と願えば右」というよう
なことになって、初代が思い付かれたのが、「これからは、私の上に起こってくる
こと一切を受けよう」ということでした。初代が、親教会で、そのことをお届けな
さいました。その時の神様の思いですね。それこそ、どれほどしの喜び、感動をも
って、神様がそのことをご覧になっておっただろうかと思います。そして、「成り
行きは神の働き」という、誰でもが、みやすく助かって行く道が、明らかになるの
です。
 今度京都の方で、信徒会の全国的規模での集会があったんだそうです。昨日、そ
の模様をテープで聞かせてもらいましたら、その中で、「大成功者と小成功者の違
いは何かと言いますと、大成功者というのは、実に謙虚だ」とおっしゃってました。
そういう話を聞く時に、「謙虚でなくちゃいけん」と思うわけです。例えば、大河
のように、静かな生き方をしたいと思っても、それが続かないのです。こちらの心
が小さいままですから。
 だから、どうしたら、そういう大河のような心になれるのかが、肝心なんでしょ
うが。ところが、合楽の場合はなれるわけです。この芥子粒(けしつぶ)のような
私が、大河のような生き方が出来るようになるわけです。この成り行きによって少
しずつ育てられ、この成り行きによって改まって行くということをした人ならば、
間違いなく、蛇蝎(だかつ)のような私が、どうしてこういう有り難い心が使えて
おるだろうか、というようなことになっていっておるのです。ですから、私は、こ
の成り行きを信ずるということだと思います。成り行きを、永遠の生命とさせて頂
くことです。例えば、この同じ成り行きの信じ方にいたしましても、十信じておる
のか、百も万も信じるのか。それを初代は、「信は力なり 力は光なり」とおっし
ゃるんです。
 そういう意味合いで、例えば成り行きが、皆さんの中で力になっておるのか、光
になっておるのかを、見極めねばなりません。先日から、「成り行きの比礼が見え
だした」と頂きました。成り行きが力になり、成り行きが光になるところまでは、
お互いが、お互いの中に火を灯していかなければなりません。また、この光ならば
世界を照らすことが出来る、この生き方ならば、万人が出来るという確信を持ちな
がら、信心の稽古をしていきたいと思いますね。どうぞ。



平成11年7月6日 朝の御理解(親先生) 御理解第38節  垢離を取るというが、体の垢離を取るよりは、心のこりを取って信心せよ。 身体の垢離をとるにも力をいれて揉みほぐすことがいるように、心のこりも同じこ とで、よくよく教えを元に練り出して本当のことがわからねばなりません。心のこ りも嘘のようにとれるものです。 今日、ある方が或る問題で心にしこりができ、ここ二、三日悩み続けて居りますと、 お願いがありました。 私は「その事柄をとおして信心のお育てを頂いているのですから、お願いもさるこ とながら、お礼も申し上げねばなりません」と申しましたら、すぐその後でお礼に 参拝して来ました。 本当のことがわかったから、幾日もの悩みも心のしこりもとれたわけです。 本来、我情があるから、こりをつむのです。 我情をとることに精進することが第一です。 (昭45・7・20)  今、いろんな人たちが、「心だ、心だ」と言うような時代になりました。けれど も、目覚める御時節を頂かなくては、本気で改まりたいとか、磨きたいとかという ことには、ならないと思うのです。例えば、神様からいちいちお知らせを頂けるよ うになったり、または、超常現象を起こせるから、人間の心がまんまんしゃんのご となるということは、絶対ないということです。そういう意味合いで、教祖様のす ごさというのは、そこを卒業なさって、自分の心に目覚めていかれたことです。教 祖様は、「何と有り難い私になったんだろうか」と、自分の心をまつっておられま すよ。  自分の心に目覚めますと、「我まま、横着、つめたい、意地悪、ずるい、こすい、 だらしがない、きたない」自分が見えてきて、「今までは銭がほしいとか、ご馳走 が食いたいとか、この世のことに眼が向いておったが、今度は神になりたいという 心が起き、今までは物に向かっていたものが魂に向かうように、心の方向が一転す ることが改めることで、これが信心である」ということになるわけです。例えば、 夫婦の問題でも、相手が変わるとか変わらんとか、そんなことが眼中にあるうちは、 信心になっていないのです。「私はこんなに成り行きを尊んでいるのに、相手は少 しも変わりません」ということではですね。そんな時代もありますが、あなたを改 まらせるためにその人はいるわけですから。まさに、天の配剤なんです。ですから、 一つの信心の目覚めを頂いて、「私が改まる以外にない」ということが分かります と、信心が本当に楽になります。本当に、それが分かってくると、世の中の一切の 成り行きは、私中心に働いて下さっていることが分かりだします。  昨日、かつらぎ教会の先生が、お礼参拝に見えました。それと言いますのも、双 子の娘さんがおられましたが、先日から、そのうちの一人の娘さんが、六歳で、ご 帰幽のおかげを頂かれました。私は、合楽的だなと思いますのが、その亡くなられ た一週間後に、やはり同じ障害を持ちます、東京支部長の孫にあたるんですが、家 内のいとこになります、久保山斉君の娘になつみというのがおりまして、この子も 六歳で、お国替えのおかげを頂いたのです。斉君たち夫婦というのは、別に大した 信心もないんですが、その受け方が見事なんです。鮨屋さんですから、一日中立ち 仕事です。そして夜遅く帰ってきて、その子の面倒を見る。せっかくの休日には、 千葉かどこかに、四時間も五時間もかけて治療に行くんだそうです。それをいやな 顔もせずに、もう、見事に受けるんですね。  このなつみさんが、具合が悪くなったというのを聞きました時に、「この世でな すべき仕事は終わった」ということを、私が頂くんです。本当に、一人一人が、そ ういうそれぞれの天命を、持って生まれてるのです。その告別式の時に、斉君が言 ったそうです。「この子のおかげで、私が育てられました。それこそ線香花火のよ うな人生でしたけれども、この子が残していった財産というのは、大したものを残 してくれました」というて、みんなにご挨拶したそうです。これは、まさに彼の実 感だったと思います。  昨日、かつらぎ教会の先生も、それを言われるのです。同じ脳腫瘍だったそうで すが、同じ病院に入院しておられた子供さんも、やはり一週間位して亡くなられた そうなんです。そこは子どもさんが二人いて、そのうちの一人だったそうですが、 大変悲嘆にくれた告別式だったそうです。本当に、信心のあるものとないものの違 いと言いましょうか、「信心とは大したことだなあ」と、私は思わせて頂きました。 昨日、その一連の働きを見せて頂きながら、「こういう働きの中にあっての、あれ なんだ、これなんだ」というのを実感できなければ、そういう時に、そういう有り 難い見事な頂き方が、できることじゃないと思うんですね。そういう意味で、この 成り行き、あの成り行きの中で、お互いが、それを自分の力にしとかなければ損で すよ。それをただ、なんとなくおかげを頂きましたで終わらせたのでは損です。本 当に、その成り行きの階段を、一段一段昇っていくことです。そうするところに、 確かに、命の目覚め、いうなら生神の目覚めというような段階に、辿り着くと思う のです。そういう一つの目覚めを頂いたら、しめたもんです。ほっといても信心し たくなります。本気で神様になってみたいというような気にもなりますよ、ね。そ ういう意味合いで、お互いが、まずは心の目覚めを頂きたいと思います。どうぞ。
平成11年7月5日 朝の御理解(親先生) 御理解第24節 人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の 信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢 信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力を そろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信 心をせよ。 各自の信心の要がどこにおかれているかよく考えてみましょう。 一、「人間ハ土より出でて土に還る」と言われます。だから其の道中とても土の心 に徹する。 一、成行きを尊び大切にする。それハ、成行き其のものが天地自然(神)の働きだ からと信じて疑わない。 一、間違いのない絶対の真を身につける生き方を体得して行けば、必ず末広のおか げも肝心要の御神徳も受けることが出来る。 (昭56・7・15)  何の道でもそうでしょうけれども、しょうことなしの時代では、物事が上達して いくことにはなってまいりません。最初のうちはしぶしぶであったり、例えば、見 栄体裁とか、そういう不純な動機の中から、始まることもあります。ところが、だ んだんけいこをさせて頂いているうちに、そこに一つの手応えを感じだしてくると、 「その身から打ち込んでの」ということに、段々なってくるわけでしょう。  私は、本当に様々な生き方があるもんだなあと、いつも思うのです。特に、ここ 二週間位ですか、神様から「際物」ということを頂いて以来、何か私のものの見方、 考え方が変わったんです。例えば、テレビを見ていても、昨日もそうでしたが、あ る青年が、断崖絶壁のようなところを登る世界大会に出て、本当に奮闘努力をして るわけです。また、先日も、「夢を追う」ということで、例えば、高校時代に、甲 子園なんかに出た人達で、ほとんど無名のままに終わるわけです。そのうちの一人 が、社会人になりましても、野球だけは続けたいということで、安い給料で、全国 を転々として野球を続け、とうとう大きな大会にも出れなかった、というような場 面で終わったんです。本当に、無意味なことに、自分の命を燃焼していくんだなあ、 ということですね。いや、それでもし、例えば、野球の選手で日本一、世界一にな ったとしても、いうなら際物でしょうが。だからお互いが、せっかくなら、価値あ るものに夢中になりたいということです。それを教祖様は、ここで、「どうぞ、そ の身から打ちこんでの真の信心をせよ」とおっしゃるわけです。それを、この頃頂 きますことから言えば、本当に、子孫繁盛家繁盛につながるところに、お互いが、 生きる要を押さえなければ損だよ、ということです。  そういう意味合いで、初代の、あの「人の一生」のお言葉です。野球なら野球に、 山登りなら山登りに人生をかけてみて、「果たして私の一生は、これでよかったん だろうか」と、誰でもが、思うと思うんです。なぜって、それでは命が納得しない からです。初代が「人の一生」で、最後に、「このこと一つを明らかにすると、飛 び立つばかりの喜びがわいてくるのです」とおっしゃっています。いわゆる命が納 得するものです。また、初代が、喜びたい心、和らぎたい心、これは命の欲求です と言われるんです。ここのところが、皆さんは、納得いくでしょうか。この命の目 覚めがいつ来るか、だと思います。ですから問題は、どの時点で、価値観が変わっ ていくかでしょうね。それこそ年をとって、「本当に、金じゃなかった。物じゃな かった」と分かっても、もう遅いでしょう。  先日から、ミニ御理解に頂きますように、私たちが生きるということは、いつも、 問い詰められておるということです。私たちが生きる中に、それこそ、百人百様の、 様々な成り行きがございますけれども、その成り行きというのは、私の我情我欲を 満たすためなのか、私の神性を磨かせて頂くことのためか、どちらかです。それで、 ほとんどの人が、我情我欲を満たすために、その成り行きを選んでいるわけです。 ですから、どんどん我情我欲の方が、肥え太っていっています。ところが私の場合、 本当の成り行きの頂き方をしてまいりましたので、確かに、私の命が、どんどん目 覚めだしてきたり、成長しだしたと思います。そこに、私の命が成長していきます から、当然、ものの見方、考え方、即ち、価値観というものが、はっきりしてきた のです。それを、大阪の玉水教会の初代は、「信心しだすと、今までしたいと思っ ておったことがしたくなくなり、したくないと思うておったことがしたくなる」と おっしゃいました。いや、これはみなさんだって、段々そういう体験を頂いておら れるんじゃないでしょうか。私が先日頂いたミニ御理解は、私の通って来た道でも あるわけですが、その次に、「選ぶのはあなたです」と。そして最後に、「思えば 蛇蝎(ダカツ)のような私の心の中に、今ではこのような有難い心が芽ばえて来て おります」と頂きました。なぜなんだろう。いや、意識する、せんにかかわらず、 私の場合は、私の神性を育ててきたからです。 そういう意味合いで、あまりにも無意味なことに打ち込み、骨折り損のくたびれ 儲けの人生を送る人が、ほとんどではないでしょうか。そういう中にあって、教祖 様のご信心が、前代未聞だと思うのは、流行ることもなければ終わりもないという ような助かり方、または、子孫繁盛家繁盛に繋がるような助かり方、そういう道を 残されたということです。だから、せっかくならば、そこに、お互いの信心の要を、 生き方の要を置きましょうということです。本当に価値あるものを、生きる要に、 信心の要に、したいものだと思いますね。どうぞ。
平成11年7月4日 和賀心デー御理解(親先生) 御理解第75節  人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に 見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が 見ておるぞ。  私は、夏期信行と一緒とは知らず、いつもの和賀心デーと思うて、和賀心教典を 開かせて頂きましたら、この御理解第75節でした。ですから、夏期信行のミニ御 理解は、後で頂きたいと思います。例えば女の人だったら、年頃になったら、自分 の器量が良いだろうか、というふうになるわけです。皆さんはどうでしょうか。自 分の心がどうなんだろうか、と自分の心が問題になっておられるでしょうか。教祖 様の場合、いつも心を見ておられます。  ここに、実に的確な御理解があります。教典をお持ちの方は、633ページを開 いて下さい。実におもしろい御理解をなさってます。津川治雄さんに対しての御理 解なんですが、その18を見て下さい。 「信心する人は、第一の心得が、腹の立つことがあっても腹を立てないようにせよ。 腹を立てては家内の不和を起こす。人と仲違いをする。世間を見よ。後にはわが身 を捨てる者がある。これは堪忍が足らないのである。堪忍は、ごく大切なものと心 得よ」 と。まあ、ありきたりな御理解だなという感じがするでしょう。ところが、次に、 このご理解があって数年を経た後に、 「あなたは、ものの堪忍をよくされるから、神様も非常におほめになっている。結 構なことであるが、もう一つ進んでおかげを受けるがよい。神様が『申の年(津川 治雄)はよく聞け。堪忍はよくするが、腹の立つのをおさえこんでいる。そのおさ えこむので気分をいためる。それでは、まだいけない。もう一つ進んで、腹の立つ のということを知らないというようにせよ。そうすれば、身の薬である』とおっし ゃる」 と仰せられた。 という御理解です。おもしろいですね。ぐうぐう押さえるだけでは身の毒ですよ。 けれども、それをありがたく頂くということになると、身の薬ということになりま す。  続いて、633ページの18、19、20、21と読むとおもしろいというか、 教祖様は、決して口だけではない。実際に、教祖様御自身がして見せておられると いうことです。その19は、山伏事件のことです。そして、21が正神様の問題な のです。教祖様御自身が、「私はこうやって受けた」と具体的なことをおっしゃっ てるのです。教祖様の場合は、御教えの一つ一つが、御自身の実験実証の中から出 てきておるということは、一つ押さえてもらわなければいけません。その20には、 「腹の立つことを知らないようになるためには」ということで、 「それには、悪いことがきても、『これは自分が犯した罪のめぐりか、先祖が犯し た罪のめぐりであろう。これで、一つめぐりを取り払ってもらうのだ』と思うがよ い。また、それに相違ないのであるから」 と教えておられます。これは、初代も、昭和30年代くらいには、徹底的に「めぐ りのお取り払いの為に」という頂き方をされた時代があるんです。まあ、それはそ うなんですね。ところが、今はどうですか。今は、合楽では、「成り行きは神の働 き」として、けいこさせて頂いておるわけです。 昨日でしたか、高田裕美子さんが夏期信行に参って来て、あちらのご一家はお百 姓さんをされてますが、その枝豆を出すので、それこそ、山のようにあるのだそう です。それを一つ一つ整理して出すのだそうですけれども、あまりにも多いから、 最初は、「こんなにしなければならないだろうか」と思いましたと。ところが、今 親先生が言われるように、「これでお徳が頂ける」と思うたら、それこそ、楽しく、 その山のような枝豆の整理が出来たというんですね。今はそこまで、信心がみやす く、楽しくなっていますよ。だから、本当に、その成り行きの一つ一つが、神様の お働きの中にあるということですよ。例えば、津川治雄さんに話しておられる、教 祖様のこのお話なんかも、そのことを実感させて頂くではありませんか。  本当に、不思議とは思いません。私が、教祖様のことに触れだして、今の合楽に 起こっておる的確な働きというのは、何だろうか、と思います。教祖様が「形が無 くなったら、来てくれと言う所へ行ってやる」とおっしゃっていますが、そのとお りのお働きではありませんか。私たちと教祖様のチャンネルが、今、ぴたっと合っ てるからだと思うのです。そういう意味で、教祖様ほど、心を問題になさった方は ないなあと思います。皆さんどうでしょう。心を平気で壊してはいませんか。教祖 様に神習い、いよいよ心だけを問題にして、心を大切にさせて頂きたいですね。ど うぞ。
平成11年7月2日 朝の御理解(親先生) 御理解第3節  天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、 氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、 前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子 におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、 神ありての氏子、上下立つようにいたす。 親のふところにありながら親のふところにあることを知らず、不安焦燥の生活をな して居る状態は、天地金乃神として、又親として、みるにみかね給うところから、 生神金光大神を差し向け、親子共々の繁栄、幸せを願われたものである。 その不幸の第一は、人間氏子の見当ちがい思いちがいの生活が其の原因をなしてお ると指摘し、メグリの根絶を願われたものである。 どこに難儀のもとがあるかを知り、親のふところにある子供のような安心を頂かね ばなりません。 (昭44・7・20)  この御理解第3節はご裁伝の一つで、教内においては、立教神伝、それに元治元 年の御広前建築の頼みと合わせて、三神伝と言われるものです。ですから、教祖御 理解として、教祖様自らが書き残して下さっておるものです。 このご裁伝があったのは、明治6年の、あの例の神前撤去の後です。本当に思う てみればみるほど、もしもこの神前撤去という成り行きがなかったら、金光教はは やり神で終わっているかも分かりませんね。これはおもしろいことに、同じ時代く らいに、大変発光して、あれよあれよという間に、数百万の信者が出来た教団があ りました。それがあっという間に取り潰しにあったんですね。ですから、当時の金 光教の伸び方というものを思う時に、はやり神になった危険性は大いにあったと思 います。この神前撤去という成り行きの中で天地書附が生まれ、金光教の助かりよ うをはっきり明示してくださったわけです。そして、その流れの中で御理解第3節 が出てくるわけです。ですから、天地書附で神名が明らかになり、ここで、天地金 乃神の性質というものを宣言なさるのです。ちょっと読んでみましょうか。実は、 御理解第3節では、「氏子の信心でおかげを受け」という肝心なところが抜けてる んですが。 教祖様のご信心が分かれば分かるほど、私は、ここで言われる、子孫繁盛家繁盛 の道を明らかにしてくださったのが、教祖金光大神様だということを実感します。 そして初代のミニ御理解に、今日は大変心を打たれたのです。ここで、「親のふと ころにありながら親のふところにあることを知らず、不安焦燥の生活をなして居る」 と言っておられます。皆さんの場合、日々の生活の中に、「本当に親のふところに ある私だ」ということを、どれほど実感できて生活ができておられるでしょうか。 問題は、何がその実感を断絶してしまうかということです。  先日の祈願祭のお祭り中、私は、「人知人力でなす全てが毒だ」ということを強 烈に頂くのです。いや、確かに人間が努力して、事が成され、人間の人知人力で人 間の文明、文化というものが築かれてきました。けれどもそれが全て、本当は毒な ことだということです。結局、自分でする、自分の才覚でどうにかなる、やはり私 が頑張らなければ、というようなものが、親のふところにありながら、その生かさ れて生きておることが実感できない、大きな原因なんです。この「吾無力」という のは、中々、凡人として、実感できない心境です。私は本当に人知人力の強い人間 です。その私が最近実感できるんです。「本当に神様のおかげを頂かなければでき ることじゃない」と。神様のおかげを頂かなければ、ありがたくなろうと思うても なれないのです。そこには、安心も喜びも頂けません。そこで教祖様は、「人代と 申し、わが力で何事もやり。今般、神が知らしてやること、そむく者あり。神の教 えどおりをする者は神になり。昔は神代と申し、今は人代。昔へもどり、神代にな るように教えてやる。難儀はわが心、安心になるもわが心」と教えておられるので す。  本当は「鐘が鳴るのか撞木が鳴るか、鐘と撞木の間が鳴る」という、あいよかけ よで立ち行くお道です。ですから、今日のこの御理解第3節に、一番肝心な「氏子 の信心でおかげを受け」というところがいるのです。これをちょっと難しい言葉で 言うと、自力と他力があいまって、本当のおかげになるのです。ところがこの末法 の時代には、どうしても私のような性格の人が多いと思うのです。「自分の努力や 才覚で何とかしなければ」と思う人たちです。もうこれが、一番神様の働きの邪魔 になるのですね。だから皆さんが、いっぺんは「吾無力」を本当に分からなければ なりません。「神様のおかげを頂かなければできることじゃない」と分かって、そ の上での人力となる時に、1たす1が10にも20にも30にもなってくるわけで す。  昨日テレビであっていましたが、ノストラダムスの大予言で、「1999年7月 に、天から魔王が降りてきて、地球が破滅する」と言うんです。けれども私は、本 当に今月は、神様が降りてきてくださる月だなと思います。私は、今神様が、復活 したくてたまらないと思っておられるものを感じるのです。今、神様がみなさんと 交流したいという一つの催しがあっております。この神様と私たちの交流を断絶す るものが、人知人力です。ですからみなさん、何事をするにも、心ゆくまで御祈念 して、スタートをするということをなさってください。私は、もっと身近に神様を 感じれることになるだろうと思いますね。どうぞ。
平成11年7月1日 月例祭御教話(親先生)  今日から、恒例の夏期信行が始まりました。これは、私がいつも思うことですが、 合楽の行事というのは、神様の催しだということです。これは、実際、初代のお手 代わりさせて頂いて、私が力を受けたというならば、私は、その催しごとに、本気 で取り組ませて頂いたからだと思います。例えば大祭なら、その一ヶ月前から、本 気で精進して、「このご大祭に神様が何を私に分からせてくださるんだろうか」と 取り組みました。皆さんはどうでしょうか。  「信心の自立」と言われますけれども、私は、合楽では、本当を言うなら、あの 初代が17年前に御広前を退かれた時点から、信心の自立を願われていたと思いま す。例えば、初代の姿を見て、我が親ながら、本当に「神様の様な方だなあ」と思 うておりました。ですから、私も皆さんも、とても初代のようにはなれない、とい う思い方をしておりましたよね。そこで、もういっぺんここに凡夫の私を引っ張り だして下さって、どう変わるかを見ておいて下さいということだったのです。初代 のお手代わりして間もなくの頃、ある方が、「初代は満月の様な方でした。ところ が、先生を見ていると、糸月のようですね」と言われました。本当にそのとおりで した。そして、その私は、この17年の間、私に起こってきます全ての成り行きを、 ただひたすらに頂かせていただきました。それこそ、最初はぐうぐうであったり、 泣き泣きであったり、がむしゃらな成り行きの頂き方ではありましたけれども、成 り行きをだんだん頂かせて頂いておるうちに、ケシ粒のような心であった私が、ど うしてこんなに人を責めなくていいんだろう、と思うぐらいに、第一、人を責めな くてすむようになりました。心が成長してまいりました。例えば、今朝、夏期信行 のことを願いながら教典を開きましたら、御理解13節を頂きました。「神は、向 こう倍力の徳を授ける」と開いたとたんに、もう心がドキドキするような実感を頂 くのです。十何年前の私だったら、ドキドキもしていないでしょうし、「ふうん、 そんなもんか」と思うぐらいだったでしょう。どこがどう違うのでしょう。心が育 ったか、育っていないかですよ。  私が、今日、ありがたいなあと思いましたことは、夏期信行が始まります前に、 皆さんがぞくぞくとお届けに見えます。そして、そのほんの2、3分の時間でした けれども、御広前中に、何とも言えない、張り詰めたような、凜とした雰囲気があ ったのです。私はそれを見せて頂きながら、私の心の中に、「粛々」ということが 浮かんでくるのです。それで、早速「広辞苑」を開きましたら、「おごそかなさま」 ということでした。そういう意味合いで、この一ヶ月間、まずは、楽はしませんと 覚悟を決めて頂けませんか。そうでなければ、成り行きが十全に頂けないのです。 それに「徳の光」です。徳の光が少し輝きだしますと、私にとって大事なもの、価 値観がどんどん変わっていきます。ですから、神様が今、「億万の金と、私が四六 時中ついてやる生活とどちらを取るか」と言われたら、私は間違いなく後者を取り ますよ。今日、何人かの人に同じ質問をしましたら、英治君が、「それは二つほし いです」と。それは二つもらえるなら、それがいいですよね。(笑)ところが、お 徳というのは、この二つがもらえるのです。 ところが、今、御神徳という言葉自体が、荒唐無稽なものになってるのです。な ぜなら教祖様が、信心すれば誰でも御神徳が受けられるとおっしゃってるのに、こ れまでそうなっていないから、諦めてしまっているのです。それに、もう一つ大事 なことは、御神徳と霊徳の区切りをつけることです。千里眼のごとく、先のことが 分かったり、体を宙に浮かしたり、そういう超常現象ができるのを、これまで神徳 と言ってきたところがありますが、実は、それは霊徳なんです。そういう超常現象 が現れたというて、私たちの本当の幸せにつながりますか。本当の安心につながり ますか。それよりも、あなたを中心に、神様が働いておって下さるのではなかろう かと思うような働きを、いただき続けることです。いや、これなら誰でもできるし、 これが真の神徳です。今日もある方が、「今日一日、本気で成り行きを頂こうと思 うたら、ずっと成り行きはつながってますね」と言われました。お互いが、この成 り行きという働きの中に神様を感じていく、神様を見ていくことならば、その気に なれば、今日只今からできます。  今日の夏期信行の御理解が16節でした。お釈迦様が、人間の生老病死というこ とを分かられて、「人間が生きる本質の中には、どうしても抜けがたい苦しみがあ る。それは何だろう」と、菩提樹の下に9年間座禅を組むご修行をなさって、分か られたことが、この無常なんです。けれども、その無常の世の中にあって、変わら ないものがあるのです。初代が、『合楽理念は、真に人間の実生活を徹底して、光 明世界に導く真理である。合楽理念は人類の実生活と歴史とを一貫するところの人 類進化(幸福)の根本原理であり、今後、幾千幾万年を経るも人類の、この理念を 反発して生きることはできない』とおっしゃっています。実際、宇宙200億年の 歴史を見て下さい。進化し続けてますよ。それを初代は、幸福という言葉を使われ て、この天地の中には、幸せにせずにはおかん、助けずにはおかんという働きだけ しかない。これは永遠に変わることはない」と言っておられるのです。だから、お 互いが、それを実感をもって感じて頂くためにも、どうでも、日々の成り行きの中 に、神様を感じ続けなければなりません。 この夏期信行には、神様がお徳をやろうとおっしゃっています。お徳というのは、 人間の生命力の根源です。人間の幸せの一切のものが、ここから生みだされるもの です。そういう価値あるものを神様が頂いてくれと言われるのですから。一つ皆さ ん、この一月間、填ってみてください。どうぞ。
平成11年7月1日 朝の御理解(親先生) 御理解第13節 神は向こう倍力の徳を授ける。 倍力の徳をうけられる様な向かい方とはどんな信心だろうか。先ず考えてみなけれ ばなりません。  かまきりの 暑さに少し つかれみせ  日まわりの 幹太くして はげしさも これは昨日、少年少女会かまきり班、ひまわり班に対して頂いたもの。 勿論、徳をうけるには後者をとらねばなりません。 (昭44・7・30)  ※かまきりとは、筑後地方で別名「拝まにゃ通さん」といわれるから、おかげ信 心のことをいう。ひまわりは太陽に向かって暑い方へ暑い方へ向かう。だから、 楽はしませんという修行精神をいう。  今日から恒例の夏期信行に入らせて頂きます。そのことを願いながら、教典を開 かせて頂きましたら、この御理解を頂きました。どうでしょうか、みなさん、例え ば今日の御理解を頂いて、どうお感じになられたでしょうか。私は、心がドキドキ するようなものを感じさせて頂きました。  昨日は、交通安全悪疫予防の大祈願祭でした。私は、合楽の催しというのは、間 違いなく神様の催しなんだと思います。ですから、ただ恒例の行事でおわらせるな ら、本当に馬鹿らしいと思うんです。その気になれば、特別なおかばいを頂ける日 ですから、ね。それは、昨日のお天気に象徴されるがごとくです。そして、今日の この御理解を頂いて、それこそ私は、心がわくわくするようなものを感じるわけで す。「神は向こう倍力の徳を授ける」とおっしゃるんですから、ね。 先日から、若い人たちに聞いてもらったんですが、数億円のお金をもらうのと、 神様が四六時中ついてくださる生活と、どちらをみなさんなら、取られますかと。 実は、これがお徳なんです。神様が、あなた中心に働いて下さる働き、これがお徳 なんです。しかも、このお徳は、あの世にももっていけ、この世にも残しておけれ ると言われるのですから。けれども、これは、やっぱりお互いの信心が育たなけれ ば、猫に小判なんです。けれども、確かに今、合楽の人だったら、間違いなく、こ のお徳を頂きたいという人達がだんだん育ってきていることが、何というてもあり がたいと思います。昨日もお祭りが終わりまして、ある方が、「成り行きを頂くと は、こういうことなんですか」と言うて、本当に神様から、つきっきりのような働 きを受けておることのお礼のお届けがありました。私が言ってるのは、ここの一線 上までなんです。この一線上までは、どうでも皆さんが、この一年半後には、出て いただきたいのです。なぜって、ここが一度分かりましたら、あとは、ずっと信心 の積み重ねができるのです。  初代が、「信心は、ありがたく、楽しく、愉快だ」とおっしゃっていましたが、 それは、ここまで来た人ですよ。ここまで来た人は、打ち込んだら、打ち込んだだ けの手応えを頂けるようになります。「いや、私は、何十年合楽に通いましたが、 手応えを頂けません」と言う人は、方向が違っているのです。そうでしょうが。合 楽に向かうなら、善導寺、次は勿体島、椛目、常持、合楽と信心の段階を踏んでい きます。教祖様の御神号がずっと変わられますね。安政4年に、神の頼みはじめが あって、初めて教祖様と神様との関係ができられます。その翌年に、すぐに文治大 明神の御神号を頂かれます。そして、次の御神号が変わるのはいつですか。安政6 年です。金子大明神という御神号ですね。次は、文久2年に金光大明神ということ になられます。次が、元治元年で、金光大権現ですね。それから、明治元年に、生 神金光大神の御神号を受けられます。教祖様が、どういう信心の道行きをなさって、 生神金光大神になられ、合楽の世界に至られたかを、今、私たちが勉強させて頂い ておるわけです。そして、今まで、どうしても教祖様のようになれないと言うてき た、その一つの大きい原因が、生神金光大神なんですね。これを、いうなら、完璧 な教祖と皆が見なしてきたのです。 明治維新になって、神道が国の宗教だと定められ、仏教が廃止され、仏教用語を 使ってはならない、ということになったわけです。それが、明治元年です。ですか ら、生神金光大神という御神号に変わられたのだそうです。私は、それを聞いて、 そっ啄同時というものを感じました。卵がかい割れるのは、内からかい割れようと する力と、親鳥が外から、突つくのが、同時だそうです。教祖様が、中から、育っ て見えた、それと外からの働きとが一つになって、この生神金光大神が生まれたの かなと感じて、感動でした。ですから、教祖様が、「生神とは、ここに神が生まれ るということであって」と、言われるでしょう。そのように、生まれたばっかりな んですよ。生神とは、神の心が生まれたという段階なんです。事実、ここから、ま すます教祖様の信心のお育てがあるわけですから。教祖様の信心を辿っていく時に、 教祖という方は、一つの道順を辿って、生神金光大神までこられた方なんです。 皆さん、御神徳とは、あなたを中心に働いて下さる神様の働きです。そういう意 味で、慢心に聞こえるかもしれませんが、私は、御神徳を受けていると確信します よ。いや、皆さんにも、「それなら、私も御神徳を受けています」と言うてもらわ なければならないと思います。この夏期信行で、「神様が向こう倍力の徳を授ける」 とおっしゃるんだから、お互いが本気で、お徳を頂いてみようという気になって頂 きたい。どうぞ。 <合楽教会御理解目次へ戻る> <日本語表紙へ戻る> --------------------------------------------------------------------------