金 光 教 合 楽 教 会 の 御 理 解

平成11年5月30日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第47節
 祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。


病気の時は医者、死んだら坊主、果たして医者と坊主でよかろうか。
人間がいよいよの時、どんな無信心者でも何かに縋らねばおれぬという。その縋ら
ねばおれぬ心の比重の相違が祈れ薬れになったり、薬れ祈れになるのである。
『薬れ祈れにするからおかげにならぬ』ということは、病気が治らぬということで
はない。
次の高橋博志先生のおことばで知ることが出来る。
「お取次を頂いておきてくることは、よいことわるいことみなよい。
 お取次を頂かずしておきてくることは、よいことわるいことみなわるい」
御取次の働き、その作用の微妙さが教えられている。    (昭45・7・29)


 この御理解は、ただ、病気した時だけの御理解というよりも、むしろ、『祈れ薬
れ』の生き方と『薬れ祈れ』の生き方という、人間の根本的生き方を指摘されてい
ると思います。
 教祖様は、この神様との出会いからずうっと、神様のお知らせのままに行動なさ
います。たとえば、夏に近くなっても、綿入りの着物を着ておられるわけです。
「金光様、暑くないですか」と尋ねられると、「いや、まだ神様からお許しがない
から」というように、もう一々に神様のお指図のままに動かれるわけです。それが
教祖様の生活の全体です。ですから、それを凝縮したような御理解が、教典の一五
八ページの二五です。確かに、ここで言われる人代が、まさに今なんです。いわゆ
る何事も自分の知恵才覚、努力、または人間の常識観念で動くわけです。
 先日NHKで、ダイエーの社長の中内さんのことを放映していました。開店当初、
わずか四十坪の店舗だったそうですが、この四十年間のうちに、大変な急成長を遂
げました。ところが、バブルがはじけてこちら、今度は、急降下を始めたわけです。
それで、一遍社長を辞めておられたんですけれども、もう一遍立て直そうというの
で、自分が復帰しておられるわけです。七十八歳なんだそうです。それを見て、私
は、いろいろ感じさせてもらいました。第一に、そのエネルギーですね。これはど
こから来るのだろうかと思います。そして、今までのダイエーのやり方、または理
念、それを全て否定しますと言ったんです。
 本当に今、金光教を総括する、または人類の二千年の歴史を総括するというなら、
今までの生き方は全部駄目だったんだというような決断の時が、要るのではないか
と思いますよ。今までの金光教の百何十年の歴史の全てを零に戻すと。大きくいえ
ば、人類二千年の歴史は、失敗であったと。いや確かに繁栄もしたし、便利にもな
りましたよ。けれども、幸せに繋がっていないのだから。だから、今までの歴史を
総括して、零からの出発というようなことが言える人が、教内の中でも、世界をリ
ードしていく人達の中でもいないだろうかと思います。そして、
この中内さんが、成り行きを見る力を身に付けていたら、間違いなく子孫繁盛家繁
盛の道を辿られるのになあと思うたのです。
 この子孫繁盛家繁盛と言うと、またちょっとした錯覚があるのは、何かあれよあ
れよで繁盛することを繁盛と思うているところがあります。教祖様というのは、本
当にすごいですよ。旧教典の御理解八十四節に「ものは細うても長う続かねば繁盛
ではないぞ。細い道でもしだいに踏み広げて通るのが繁盛じゃ。」とあります。こ
れが本当の繁盛ですよ。本当の進化ですよ。宇宙が今日まで進化したのは、二百億
年かかっています。地球が今日まで進化したのは四十六億年かかってますよ。それ
こそ変わったか変わってないか分からんような進化です。とんとん拍子の繁盛とい
うのは、本当の繁盛じゃないです。確かに、人知人力によると、そういうあれよあ
れよの繁盛が頂けるかも分からんけれども、結果的にどうなるかです。中内さんの
繁盛はその代表ですよ。必ずこうなりますよ。
 教祖金光大神様が、本当の繁盛につながる生き方を残されました。この教祖金光
大神様の御信心を見ていくと、もうここに極まります。教祖様は、受けて受けて受
け抜かれた方ですね。全ての成り行きを受けて受けて受け抜かれた方です。たまた
ま同じ時期に天理教が生まれるんですが、天理教の教祖様は、自分の全財産を人に
与えたんですね。いわゆる与えて与えて与え抜いた方です。この天の配剤の妙味を
思います。そういう意味で、教祖金光大神様という方は、受けて受けて受け抜かれ
て、流行ることもなければ終わることもないような道を残して下さったのです。と
ころが、教祖様がお国替えされて三十年経った、明治四十五年に百十一万。それが、
まだまだ伸びて、最高潮は昭和八年の教祖五十年祭の時には、五百万と言われたん
です。産業革命以来、人類の発展というのは、こうなんです。異常な発展の仕方で
しょうが。だから、こういう伸び方をしていくのは、本当じゃありません。細うて
も長う続く、そういう繁盛の仕方が、成り行きを尊ぶという繁盛の仕方です。私は、
この生き方ならば、前代未聞の子孫繁盛家繁盛の道が、必ずつくだろうという確信
を、いよいよ持たせて頂くわけです。だから、この成り行きを尊ぶという生き方、
その内容、中身を、皆さんがもう少し分かって頂きたいと思います。その生き方の
一番邪魔するものは、結局、人間の計らいです。人間の見栄です。常識です。才覚
です。これを一遍、捨てなければ、本当は成り行きの十全な受け方が出来ませんよ
ね。どうぞ。



平成11年5月9日 和賀心デー御理解(親先生) 御理解第43節  死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願い せよ。 あの世、この世。 人の世、神の世。 人、人の世に生まれ、 人の世のはかなさに目覚め、 神の世の住人にならんと欲する時、 いよいよ御教えを行ずる他に道なし。 この世はあの世のためにあるのです。           (昭57・7・3)  教祖様の信心を分からせて頂きますと、教祖様は、本当に神様に縋り切ってあら れますね。『天地書附』で言えば、「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え」と いう事です。  初代が、よく「神様のお許しを頂かなければ、この筆一本持てないものね」とお っしゃっていましたが、どうでしょうかね、皆さん。私は、今日のこの御理解を頂 いて、「死に際にもお願いせよ」というのは、決して死に際だけじゃないと思いま す。それこそ一事が万事にお願いせよ、ということです。そうして見ると、本当に 私の願いの目の粗さと言いましょうか、時折々にはお願いをするんですけれども、 私の願いの目の細かさの不足というようなものを感じます。  例えば、初代が親教会にお日参りしておられます時に、ここで、もう長々と御祈 念して出られるのです。帰ってみえても、またここで長々と御祈念なさるんです。 たったそこの善導寺まで出るのにですよ。ここの違いは何でしょうか。もちろん、 神様を信ずる度合いというのはあります。それと同時に、初代の御教歌「人力にみ きりをつけて 神力にすがれ 人力自ずから湧く」とありますが、結局「障子一重 がままならぬ人の身」というものを、私達より余計に実感しておられたという感じ がするのです。  今日は、何人もの御婦人のお届けを頂いて、信心の目覚めというのは大した事だ と思うのです。信心の目覚めという事は、結局、自分の心の目覚めなんです。もう、 毎日毎日が今、有り難いとおっしゃるのですね。また、ある人は、「先生、今、そ れこそお繰り合わせの連続を頂いております」というようなお届けがありました。  昨日は、一昨日から婦人会が一泊入殿をされていて、午前中に婦人会に、午後か ら松栄会に、十三時間ぶっ続けの講座をさせて頂いたんです。皆さんが「疲れなさ るでしょう」とか言われますけど、それが、全然疲れないんです。だから、これは、 それこそ自分の才覚でこうしたり、自分の努力でこうなるとかというものは、全く ありませんからね。結局、「人力自ずから湧く」というような事でしょう。けれど も、そういう神様のおかげを頂いてというものがあるにも拘らず、その願いの度合 いと言いましょうか、その密度が、本当に少ないなあと、今日は反省させられてお るわけです。  最近、この御理解四十四節、四十三節は時々頂くんです。これは何だろうと思う んですけれども、大きく御理解を頂きますと、お互いの信心が、人間の世界、常識 の世界から一次元上がらなければ、本当な事は見えないという事だと思うのです。 これは、私が霊祭をしました時に、いつも体験することですが、御霊様の世界から、 今の私達の生活を見る時に、如何に無意味な事に執着しておるか、ということです。 この頃も、夫婦間の問題のお届がありました。それで、私が、「たかが」と言うた から、妙な顔をされました。いや本当に、いうなら「たかが」ですよ。あの世から 見れば、主人と別れる別れないなんか、たかがですよ。例えば、この銀河系に二千 億の星があると言いますよ。人間が砂を一握りすると、約一万粒の砂だそうです。 その世界中の砂をかき集めたぐらいの星の数があるんだそうです。地球は、その中 の一粒じゃありませんか。お互いは、その中の一点ですよ。たかがですよ。ところ がその、たかが一点の人間が、初代に言わせると、「砂の真砂」なんです。もう唯 一の人間なんです。あなたの心一つで、世界が変わる、宇宙が変わるというほどし の存在であるわけです。  そこで、お互いが、余りにも目先目先の事で一喜一憂し過ぎるんじゃなかろうか、 そして、大事を忘れていっておるのじゃなかろうか、というような気がするわけで す。  今日の御理解を頂いて、今日はひとつ、箸の上げ下ろしまで、一つ一つ御祈念さ せていただく、例えて言えば、車を運転させて頂く時、しっかり御祈念して運転さ せて頂くというような、一つ取り組みをさせて頂いたらどうでしょうか。そこには、 「信心の驚きと喜び」をずうっと感じ続ける事が出来るんじゃないでしょうか。そ うなったら、もう願わずにおれないという事になるんじゃないでしょうか。初代が 「願いの信心は最高峰」と言われたのですけれども、本当に、そういう私どもと神 様との関係が出来たら、願わずにおれないという信心というのは最高峰かも分かり ませんね。どうぞ。
平成11年5月7日 朝の御理解(親先生) 御理解第47節  祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。 病気の時は医者、死んだら坊主、果たして医者と坊主でよかろうか。 人間がいよいよの時、どんな無信心者でも何かに縋らねばおれぬという。その縋ら ねばおれぬ心の比重の相違が祈れ薬れになったり、薬れ祈れになるのである。 『薬れ祈れにするからおかげにならぬ』ということは、病気が治らぬということで はない。 次の高橋博志先生のおことばで知ることが出来る。 「お取次を頂いておきてくることは、よいことわるいことみなよい。  お取次を頂かずしておきてくることは、よいことわるいことみなわるい」 御取次の働き、その作用の微妙さが教えられている。  (昭45・7・29)  この御理解は、神様を信ずる心の比重ということになると思います。そのために は、初代が、「人知人力の限りを尽くしても幸せになれないということを、まずは 確認しなければならない」と言われるのです。皆さん、どうでしょうか。今、信じ ておられるものは何でしょうか。また、どれほど信じておられるでしょうか。また は、現代は、信ずるものがない時代と言ってもいいのかも分かりません。そういう 意味で、十七年間、私がただ一つ信じてまいりましたのは、この成り行きでした。 「成り行きは神の働き」、このこと一本に縋らせて頂いたわけです。そして今、思 います時に、私のその成り行きに対する信じ方と、皆さんが成り行きを信ずる、そ の信じ方との違いですね。この成り行きを尊ぶという、その内容、中身が、これほ どしのものであったのか、と驚くばかりです。確かに一切神愛も育つ、和賀心も育 つ、天地日月の心も育つ。しかも、形の上にも、本当に願い以上思い以上のおかげ が整うてくる。私中心にこの成り行き様が働いて下さっているものを感じていけれ る。そういう意味で、私は、「成り行きを頂いて起きてくることはよいことわるい ことみなよい。成り行きを頂かずして起きてくることはよいことわるいことみなわ るい」と絶対の確信を持ちますね。たとえば、成り行きを頂かずに、どんなに成功 をおさめても、本当に危ないですよ。大切なのは、窪みの中から、水がこんこんと 湧いてくるような生き方、繁盛の仕方です。この頃もある人が、「これだけ一生懸 命に、教祖様の事に取り組まれて、お疲れになりませんか」と言われましたが、疲 れません、いや、それどころか、出せば出すほど何か新たな血が湧いてくるという 感じです。  あるやらないやら分からん、自分の腕や才覚を信ずる。こんな危なっかしいこと はない。それこそ、この成り行きは不滅です。限りないおかげ、限りない力、限り ない働きが頂ける。そういうものを信じたが、いいじゃありませんか。親先生を信 じる。親先生が死んだらどうしますか。親を信ずる。大した親でもない。昨日、テ レビで言ってましたが、今の親は、、子供を教育する自信がなくなったというので すね。私も、子供を躾する自信は全くないです。けれども、成り行きが育てて下さ るという確信は、それこそ百パーセントあります。成り行きの中で育てて下さる。  この成り行きというのは、神様の働きとこちらの働きとが一つになって現れるの です。たとえば、私達が勉強もしないで、受験をする。不合格という成り行きを頂 きますよ。けれども、そこからの成り行きに縋れば、そこからの道がつくのです。 また、一生懸命に勉強をした。そして、合格を頂いた。それも成り行きです。だか ら、神様の働きと、この人ながらな働きの中に起こってくるのが、成り行きです。 だから、どんなにでも成り行きは変わってまいります。けれども、そこからの成り 行きに縋ろうということになれば、そこからの道がついてくるわけです。この『天 地書附』もそうです。「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え」と。これは他力 です。ところが、「おかげは和賀心にあり 今月今日で頼めい」と。これは自力な のです。だから、それとこれとが一つになっておるわけですね。  教祖様が書き残されたものといえば、私達は、ただ『覚書』『覚帳』ぐらいしか、 知りませんけれども、他にもあるのだそうです。八十三ページを広げて下さい。教 祖様の場合、必ず神様からのお指図があって、行動なさるのですが、そこに「安政 七庚申正月より、信者氏子柏手をお許し。帳へ所名歳覚え付け。五月一日より願主 歳書覚帳お知らせ」というのがあります。これが、御神格、御神号を頂いた人の名 前をずうっと書き綴っておられるものです。その他に「神名書付」というのと、 「一乃弟子改帳」というのと、「神号帳」というのがあるのだそうです。これは、 何だろう、何のために、と、私は、昨日からずうっと、そのことを思い続けてるの です。結局、お互いの信心の位が、ついていっておるかどうかですよ。成り行きに 対する確信というものが、どの程度にお互いが広く深くなっていっておるかという、 その手応えは、お互いが頂いて行かなきければいけないんじゃないでしょうか。そ れを教祖様は、「一年一年有り難うなってくる」というように、おっしゃるわけで す。  お互いどうでしょうか。自分に御神号を頂くとするなら、確かにここまではこさ せていただいたというような確信を頂きながら、信心を進めておられるでしょうか。 この道は、そういう道なのですから。教祖様という方は、一段一段信心を進められ た御方なのですから。どうぞ。
平成11年5月6日 朝の御理解(親先生) 御理解第48節  わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うこと を聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。お かげが受けられる。  三男幹三郎、肉腫の診断があった時、心は平常であった。「ままよ」の心の発露 であろう。おかげで奇跡的なおかげを受けた。後で思うのに、もしこれが信者の子 弟であったら、どうであったろうかと思う。 我を殺して神を生かすか 神を殺して我を生かすか (昭57・7・8)  今、教祖様の信心を勉強させて頂いて、教祖様の御理解というのは、自分で実験 実証された、また自分の信心を辿られた中から生み出されてくる御理解だなあとつ くづく思います。この御理解なんかは、特に、正神様の問題を通して、分かられた ことではないでしょうか。ところが、「ままよと思うてほっておくような気になっ て信心してやれ」とおっしゃってますけれども、どういう信心を教祖様がなさった かとなると、この教典を百回、千回読んでも絶対に分からないと思いますよ。例え ば、このミニ御理解にある幹三郎だけが、お道の教師にはならないというようなこ とでしたが、高校の時に、段々頬が腫れ出しまして、こんなこぶが出来ました。そ れが、肉腫だったんです。そこから、幹三郎の信心の方向転換があったわけで、お かげで、九十九・九パーセント助かりませんというものが、助かりました。私ども 七人兄妹がおり、皆お道の教師にお取り立ていただいていますけれども、初代に 「将来はこうしなさい」と言われた者は、誰一人いません。それでは、初代は、何 を確信しておられたのでしょうか。  これは、初代の信心というものが下敷きにしなければ、教祖様のご信心が分から ないという一つの典型的お話なんです。和賀心学の二十六章に、「神の心の奥処を 求めて」という件りがあります。そこに「私の信心の進み方を簡単に申しますなら、 『落ちぶれて袖に涙のかかる時 人の心の奥ぞ知らるる』という歌がありますが、 私の場合は、人の心ではなく、『神の心の奥ぞ知らるる』ということに、いつもな ってきておると思うのです」とあります。それをもう少し具体的に言えば、次の 「その都度に深く広く分からせて頂いて、こういう問題を通してまで、神様がかく までしてこのようなことを分からせて下さるためであったと。それが一つの感激と もなるというような生き方なんです」と。  教典の百十七ページを広げて下さい。教祖様は、間違いなく、そういう受け方を されてますよ。そうでないなら、正神様の三十何回もの無心を受けられません。そ こに、例のくぼみの絵を描かれて、「天竺 日本 唐」と書いて、「くぼい所へ寄 り、同行水の寄るごとし」とあります。そして、次の文章です。「子供のこと神に 任せ、義理(世間体)を言うな。義理を言うものは親類たりともおかげなし」と言 っておられます。これは、再三、正神様が無心にみえておる時の話です。これは明 治八年ですから、どんどん人が助かっている時です。けれども、周囲から「あんた 家の息子はどげんの」とか、または「世間の笑い者ですよ」とか言われるような背 景です。ですから、教祖様も心が落ち込んだ状態ではなかったでしょうか。初代に しても、親教会から叱られた時には、本当に落ち込んで帰ってみえました。そうい う時でしょう。くぼいところへ水が寄るごとしですよ。 百十七ページの六に戻って下さい。これも意味不明のご理解なんです。「一つ、 六月一日、下と、六月十日、中と、七月十二日、新と、治め治まる」とあります。 ところが、これは合楽の人が見るとぴんとくるでしょう。それこそ「黙って治める」 ということです。初代のご理解の先ほどの続きに、「もう一つ言えることは、一般 に『言うて聞かせてしてみせて、褒めてやらねば誰もせぬぞえ』と言いますね。こ れは、人使いのこつとでも申しましょうか、確かに、そういうような生き方になれ ば、人はついてきます。私は、とりわけ最近の金光教はこういうことになっておる ように思うのです。けれども、どこまでも、これは常識的な考え方です。金光教の ご信心が常識的なことであったら、もう信心のない者の考えと五十歩百歩です」と。 「だから私の場合は、言うても聞かせん、してもみせん、誉めてもやらん」と。本 当にそうでした。本当に初代は、我が道を行くでした。「けれども、そこから本当 の神様のお働きを受けられるんだという確信が段々もたれてきたことです」とおっ しゃるのです。次に「最近のご理解に『黙って治める』ということを頂きます。様 々な自然の中に起きてくるその問題をム口で治めていくという、それが治めるとい うことです。」とあります。私は、このことと教祖様の「治め治まる」というのが、 余りにも符合するのを見て、教祖様も、間違いなく、黙って治められた方だと思い ます。それこそ、「くぼい所へ水が寄るごとし」で、そこに限りないおかげが受け られると確信されて、一切の出来事を神様の差し向けとして、黙って治められたお 方だと思います。  昨日、ある教会の御信者さんが、そこでの信心の稽古に行き詰まりを感じて御祈 念をされていたら、「合楽に留学に行け」というお知らせを頂いておられるわけで す。それで、「先生、今日から合楽で信心の稽古をさせて頂きます」ということの 御届でした。だから、「OOさん、目先目先の助かり方でなく、根本的助かりを頂 きたい、それを習おうという気があるなら、一つ勉強においで」と申し上げたこと でした。本当にそうですよ。根本的な助かり方を頂きたいなら、私は金光教しかな いという感じがします。どうぞ。
平成11年5月5日 朝の御理解(親先生) 御理解第51節  天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業できがたし。 身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと 何なりとも、実意をもって願え。 「草野球に勝たせて下さい」といったような無邪気な願い。 生身の人間が、その生身のままで幸福になろうとする時の素朴な願い。 こういうおかげは、おしゃぶりを頂くようなもの、本当の血肉になるおかげを頂か ねばならない。 『実意をもって願へ』とはそういうことである。     (昭57・7・11)  よく三神伝と言われます。「立教神伝」、元治元年のお広前建築の頼み、それに、 明治六年に頂かれます、旧教典の御理解第三節ですね。私は、この御理解五十一節 というのは、それに匹敵するぐらいの内容のあるものではないかと思うのです。こ れは、慶応三年の事ですから、立教の安政六年から、九年も経っておられます。  いいですか。あの七墓を築かれたのも、金神様です。それこそ恐ろしい、怖い、 金神様です。その金神様が、ここではこういう事をおっしゃるのです。「一つ、日 天四の下に住み、人間は神の氏子。身上に、いたが(痛い所)病気あっては家業で きがたなし。身上安全願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身上の こと、なんなりとも実意をもって願い」と。変われば変わるものではありませんか。 あの祟り障りの金神様が、この時には、こんなに優しい神様に変わっていかれてる のです。そして、これはずうっと次に続いているのです。この当時、教祖様は、神 様をこういうようにしか表現しようがなかったのですね。いわゆる日天四、月天四、 鬼門金乃神と、三つに分けておられますが、これが、後々は天地金乃神様ですよ。  そして今日、私は、教祖様の神観が変わるという事は、神様の働きの場がどんど んどん広がっていかれたことだと分からせていただきました。ここが、大切なとこ ろです。たとえば弟の繁右衛門さんは、火を怖いものと見たわけでしょう。二、三 歳の子供が火を扱うなら、どうなりますか。火事の元です。または、大火傷します。 だから、「火は怖いものだ。用心しろ、用心しろ」と言ったのが、繁右衛門さんで す。いわゆる金神信仰で一生を終わられるわけです。ところが、教祖様は、その火 も使い方一つでは、ご飯が炊けるじゃないか、お湯が沸くじゃないか、もっと大き く言うなら、火力発電みたいな大きな働きが出来るじゃないかと見定めていかれた のです。それが、神を神と用いるという事です。次の文章に、「一つ、日天四 月 天四 鬼門金乃神、取次金光大権現のひれいをもって、神の助かり。氏子の難なし、 安心の道教え、いよいよ当年までで神の頼みはじめから十一か年に相成り候。金光 大権現、これより神に用い。三神、天地神のひれいが見えだした。かたじけなく、 金光、神が一礼申し、以後のため」とあります。  私は今日は、本当に神様がどんなに嬉しかっただろうかと実感しております。教 祖様が、神を神と用いられて、神様を輝かせていかれました。神様が、教祖様に一 礼申されているのです。初代が、教祖百年祭の時に、奥城で、金光教のご紋をもっ て、「今の金光教を図案化すれば」というお知らせを頂かれた事があります。とこ ろが、金というところは、きらきらと輝いているけれども、周囲の八つ波の部分だ けが薄らぼうっとしているというのです。そして、まだ、神の比礼を輝かせていな いというような御理解を頂きましたね。  そういう意味合いで、神様の比礼を十全に輝かすという事になりました時に、い わゆる一切神愛ですよ。たとえば、お釈迦様でもキリスト様でも、神様の思いの半 分しか伝え切れなかったと言われてます。それは、そうですよ。もう半分の難儀な 部分、暗い部分、自分の思い通りにならないところをサタンのせいにしたり、因縁 のせいにされたのですから。それを教祖金光大神様が、「そんな事ではない。あれ もこれも全てが神様の御働きだ」と、明らかにしてくださったのです。  皆さん、私達が育つ時というのは、どういう時だと思いますか。この宇宙の中に は、陰気と陽気というのが、あるのだそうです。それこそ、あのぽかぽかとした陽 気の時には、ものが発芽する働きがあるのだそうです。ところが、発芽したものが 育つためには、お湿りが要るように、私達が育つためには、この陰気が要るのです。 ところが、この陰気の部分になったら、今申しますように、霊の祟りだとか、金神 の祟り障りだと言うてきたわけです。そういう意味合いで、私は、教祖金光大神様 の御出現の第一の意義は、金神を天地金乃神様にしたということです。本当に前代 未聞の御方であると思います。  私達が、信心させて頂きます願いは、より本当の助かりを得たいということです ね。ですから、「おかげを頂いた。有り難い神様だ」という時代もあってよし。け れども、そこから、お互いが、信心のお育てを頂かなければなりません。例えば、 宇宙の二百億年の歴史というのは、進化の歴史だと言われてます。進化の歴史は、 また破壊の歴史でもあります。これを壊して、次の新しい生命が出てきてるのです。 ところが、私達は、今の生活を壊さないでおる事が、如何にも安定してるように思 うています。とんでもないですよ。そんなことがありえるはずがないです。進化し 続けるわけですから。本当に教祖様の信心にしても、初代の信心にしても、進化し 続けてあります。ですから、お互いが、より本当の助かりを頂きたいという願いを 持たなければ、神様の思いは分からないと思います。どうぞ。
平成11年5月4日 朝の御理解(親先生) 御理解第57節 金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。 金にたよるな、人にたよるな、自分自身にすらたよるな。当てになるものは何一つ ない。 ただ、たよりになるのは神さまだけと悟るところから、自ずと一心の信心が生まれ、 信の世界に住むことが出来る。『神を杖につけば楽ぢゃ』と言われるのに楽でない なら、神さま以外のものをたよりにしている証拠である。 金や者や人もみな向こうの方からやって来るもの。     (昭46・7・8)  昨日は、運動会でした。これも、一つの合楽の年間行事になるだろうと思います。 合楽の場合は、いつものことながら、自然発生的に始まって、それが御神意に適う ものならば、年々盛んになっていきます。ですから、合楽の行事は、私は神様の行 事だと思うのです。  私が、今一番実感しておる事ですけれども、本当に、教祖様の思いに触れ出した 感じがするのです。ですから、今まで不明瞭であったものが、鮮明な画面になって 現れてきておるようなものを感じております。そういう働きを頂き続けますと、神 様任せの生活が出来るようになると思います。昔から、「同行二人」とか、「神様 任せの生活をせよ」とか言われますけれども、それが、どういうことなんだろうか、 と思いませんか。ところが、私達は、神を杖につく事が出来るのです。なぜなら、 私達の場合、成り行きを神様の働きと見るわけですから、成り行き任せの生活をす る、成り行きを中心とした生活が出来るようになります。確かに楽ですね。  私は昨日、「金光様」という、三代金光様の事を書かれた御本を読ませていただ きました。教祖様、四神金光様、三代金光様と、この三代通して、金光教が完成さ れたと言われるぐらいですから、また御時節を頂いたら、是非一緒に、これも勉強 させて頂きたいと思います。その中に、「金光様と子供達」というお話があります。 これを読ませていただいて、今の私の目で見てみると、三代金光様は、何とすごい 御方なんだろうかと思うのです。結局、子供の声も神様の声として聞いておられる わけでしょう。子供たちが、御神前の敷居に腰掛けているのですから、私なら「何 ばしよるか」と言いますよ。しかも、子供達が「金光様、金光様」と口ずさむと、 それに一つ一つ「はい、はい」と答えておられるのです。何と実意な、何と目細い 成り行きの頂き方をなさる方だろうと思いませんか。  金光教の信心を総括すると、教祖様にしても三代金光様にしても、これほど実意 丁寧に成り行きを受け抜かれた方はないということを申し上げてるわけです。です から、私達の言動の原動力になっておるのは何だろうかと思うて見てください。ほ とんどの人が、我情我欲ですよ。自分の損得ですよ。ところが今、私のエネルギー の元は成り行きなんです。ですから、これは、「人力に見切りをつけて神力にすが れ 人力自ずから湧く」とおっしゃるように、結局、我情我欲というものが如何に 詰まらないものか、または、自分の人知人力というものに愛想尽かしをしなければ、 本当は出来ることじゃありません。  教祖様の場合は、それを百五十八ページに次のように表現をしておられるのです。 「一つ、お知らせ。人代と申し、わが力で何事もやり。今般、神が知らしてやるこ と、そむく者あり。神の教えどおりにする者は神になり。昔は神代と申し、今は人 代。昔へもどり、神代になるように教えてやる。難儀はわが心、安心になるもわが 心」と。これは不思議な御理解なんです。私もまだ本当のところは分からないので すが、これは、このページの冒頭から続いていると思うのです。いわゆる子供が行 方不明になるわけです。そうしたら、神様が、「帰ってごらん。安心のおかげを頂 ける」と。そうして、お礼参りに来たわけですね。次に、「あとにて神様へ私礼申 し上げ。なにかの理解」とあるわけです。これは、私どもがお届けさせて頂いて、 こういう関連がずうっとあるんだなあというのは幾らでもあるのです。「なにかの 理解。此方普請こと、今のかかりの人では不信」と。そして、今度の御造営は、成 就せんということを神様がヒントを下さってるのです。  続いて「一つ、一子正才神大柱戌生まれ、此方普請小屋の下へ二間に三間の物建 てると申して届け。人代のこと申して、理解申しおき」と。ここまでが一つの関連 したことなんですね。当時、御建築に関わって、いろいろあり、今度は、今の金神 社のところに建てるという話になったわけです。ところが、教祖様は、神定めの地 を頂いておられるのです。その教祖様の思いに反して、そこに建てようと強引にな さる背景が、ここにあるわけです。だから、「それは人代だ」というて、「人代と 申し、わが力で何事もやり」うんぬんの御理解をされるわけです。 私が、今日申し上げたいことは、何が私どもの言動の元になっておるかというこ とです。皆さん、もう成り行きが元になっていなければいけませんよ。我情我欲を 捨てろと言ったって、捨て切れない。それでもいいから、お互いが、成り行きを中 心にしたものの言い方、行動の仕方というものをしていかなければなりません。教 祖様が、すきっと、人力に見切りをつけられたのは、安政四年の神の頼み始めから ですね。神様任せの生活というものは、こんなにも楽で、素晴らしいのかと悟って いかれるのです。そして、ここで初代がおっしゃっておりますように、「楽でない なら、神様以外のものを頼りにしている証拠である」ということになりますね。こ れなんか、極まった言葉だと思います。どうぞ。
平成11年5月3日 朝の御理解(親先生) 御理解第38節 垢離を取るというが、体の垢離を取るよりは、心のこりを取って信心せよ。  身体の垢離をとるにも力をいれてもみほぐすことがいるように、心のこりも同じ ことで、よくよく教えを元に練り出して本当のことがわからねばなりません。心の こりも嘘のようにとれるものです。今日、ある方が或る問題で心にしこりができ、 ここ二、三日悩み続けておりますと、お願いがありました。  私は「その事柄をとおして信心のお育てを頂いているのですから、お願いもさる ことながら、お礼も申し上げねばなりません」と申しましたら、すぐその後でお礼 に参拝して来ました。本当のことがわかったから、幾日もの悩みも心のしこりもと れたわけです。本来、我情があるから、こりをつむのです。我情をとることに精進 することが第一です。          (昭和45年7月20日)  今日の御理解は、形の改まりよりも心の改まりをせよ、ということですよね。ど うでしょうか、お互い、どの時点で、本気で和賀心を頂きたいと、いつ目覚めるの でしょうか。例えば、女の人達なら誰でも美しくなりたいと思いますよね。そのよ うに、お互いがいつ、豊かな心になってみたい、美しい心になってみたいと気付く のでしょうか。  昨日、黄楊会が一泊入殿をいたしました。本当に、信心の整理がつくというか、 一つ一つ分かっていくことの楽しさみたいなものを感じるわけです。その中で、次 の質問をされた方があったのです。「おかげ信心ではだめだと言いながら、教祖様 は、『おかげは和賀心にあり』とおっしゃるわけです。どっちが大事なのか」と。 ここにも、金光教の素晴らしさというものを感じます。  仏教では、この世は、苦の世苦の世界だから、来世で極楽に行こうと説くわけで す。これを来世主義と言います。ところが、最近の新興宗教では、現世利益を説き ます。ところが、金光教の場合は、その来世主義でもなければ、現世主義でもない わけです。これが、一緒なのです。和賀心は、あの世でも光明世界に住めるし、こ の世でもおかげが付いて来るようになっているのです。  初代自身が、昭和四十五年頃「どうしてこんなに有り難いんだろう」と思われま す。当時、糖尿病でしたから、夜中にトイレに行かれるわけです。それで、目を覚 ます度に有り難い。「なんだろう、この有り難さは」と。そして、教典を開かれた ら、天地書附を頂かれ、「ははあ、これが、教祖様がおっしゃる和賀心か」と気付 かれます。そして、この和賀心に、夢にも思わないおかげが、次々と成就している ではないか、と気付かれるのです。ですから、今日言っております、心だというの は、一般で言う人間形成的な心とは、かなり違うわけですね。  教祖様がそのことに気付き出されたのが、明治四年なのです。この頃から、教祖 様が、普遍的な助かり、永遠性のある助かり、ということになってきた時に、心が 大事だと気付かれ出されるのです。  94ページの7を見て下さい。当時の皆さんのお参りの仕方というのが、お伺い 信心ばかりなのです。ですから、そんなことじゃないと。それが、もう少しはっき りするのは、次の12です。もっとはっきりするのが、明治五年です。99ページ の19。『一つ、天地の神の道を教える生神金光大神社立てぬき、信者氏子に申し つけ。金光大神社願い、一心に。拝むと言うな、願い届けいたしてあげましょうと 申してよし。頼む氏子の心で頼めいと申して聞かせい、わが心におかげはあり』と あります。人間の本当の助かり、根本的助かりは、わが心にある、ということを、 神様がだんだん教導なさるわけです。そして明治六年に、あの『天地書附』が出て くることになります。  これは、教祖様が、心に目覚めていかれる過程です。皆さんの場合はどうでしょ うか。初代の言葉を借りますと、「人知人力の限りを尽くしても幸せになれないと いうことを確認した人達が和賀心になっていく」と言われるのです。  教祖様が「おかげは和賀心にあり」と言われて、百何十年経ちました。今、よう やく、世の中の人達が、「人知人力の限りをつくしても幸せになれないようだなあ」 と気付くところまできてるでしょう。けれども、和賀心の大切さに気付くには、も う少し時間がかかる感じがします。  昭和四十五年当時、初代も、「若先生じゃないけれども、皆さんも、初めてこの 話を聞いて、夢のまた夢のようなことだと思われるかもしれませんけれども、毎日、 頂いておるうちに、若先生が『確かにそうだ、和賀心時代が来るのだ。和賀心でな ければ幸せになれないと思うようになった』と言っていますように、そういう働き、 そういう機構というものが世の中に出来て来なければならない」とおっしゃていま す。21世紀は、間違いなく、そういう時代になりますよ。ですから、早く、人知 人力の限りを尽くしても幸せになれないということを気付いてほしいと思います。 そういう意味で、合楽の場合、成り行きの親切にふれながら、お互いがお育てを頂 かなければなりません。そうでないと、本当に改まってみたい、和賀心になりたい というような、本気での求め方ができなと思います。  今日は、教祖様の、初代のジレンマを多少感じながら、この御理解を聞いて頂い たわけですけれども、改めて教祖様が百何十年前に、よくも「おかげは和賀心にあ り」と示して下さり、また、初代が、その和賀心になる手立てまで、よくも残して 下さっておったと思います。どうぞ。
平成11年5月2日 和賀心デー御理解(親先生) 御理解第20節  此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞 かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるが よし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。 言うことを聞かぬ子は、親もしかたあるまいが。 天地金乃神を『親神さま』と呼ぶ所以であります。「縁なき衆生は度し難し」と言 うのでなく、親心の一心が神の祈りになるのであります。御理解中に『可愛いもの じゃ』とあるは『可哀想』とはちがいます。其のままが神心であります。故に『親 よ子よ』と名乗りがあげられる。そこから詫びれば許され、すがればおかげになる のであります。 『   』の中をよく味わって下さい。          (昭45・7・2)  教祖様の信心をたどらせて頂きますと、神様との関係がだんだん密になっていか れておりますね。ですから、皆さんと神様との関係がどうなっていっているかとい うことです。それが、信心の自立ということになります。そういう意味で、私共と 神様の関係を取り結ぶもの、それが合楽理念であり、縁結びの神が成り行きなんで す。  初めは、神様と教祖様との関係というのは、怖い、怖い神様です。事実、七墓を 築かれるのですから。これが、例の七殺金神かと、教祖様ご自身が気付かれるとこ ろがあります。例の嘉永三年は、教祖様にとって、一番、目の前が真っ暗になられ た年ではないでしょうか。そうしたら昨日、長男の恵城が、「嘉永三年、嘉永三年」 と頂いて、目を覚ましたのだそうです。それで、昨日の御理解を聞いて、恵城自身 がびっくりしてるわけです。一番どん底の時代という実感が分からないと、次の四 十二歳の時に、神様と出会われる、あの大感動が分かりません。  嘉永三年に、次男の槙右衛門さんが亡くなられます。また、二カ月後に飼い牛が 死ぬわけです。義理の弟さん、養父の粂次郎さん、そして長男、長女、そして次男、 牛とこうくるわけでしょう。ですから、教祖様御自身「これが金神七殺というのか」 と思われるのです。そこで、初めて教祖様が金神という言葉を使われています。 「八月三日に本家をこうしてとりのけ。金神様へ私お断り申し上げ。方角は見ても らい」ということになるわけです。  ですから、この時は、教祖様にとって、金神様は怖い怖い神様です。この教祖様 と神様との関係が、変わっていかれるわけです。四十八ページを開いて下さい。こ れは慶応三年ですから、嘉永三年から、十七年経っています。これは御理解五十一 節の内容です。この御理解の深みとか重みとかというのは、教祖様のこういう事実 を知ってみると、すごい御理解ですよ。それこそ、怖い怖い神様であったのが、 「牛馬にいたるまで願え」と言われる優しい神様に豹変なさるんです。いや、本当 に驚くべきことですよ。  皆さん、皆さんの上に現れている神様が変わっておられますか。昨日、教祖様の この『お知らせ事覚帳』を、原本のまま、それこそ染みにいたるまで書き写したい、 と思ったんです。そしたら、先日、阿比留さんが見事な硯をお供えして下さってい たのですが、昨日、筆と水差しと墨をお供えした人がおられます。私は、神様の親 切というか、それこそ教祖様の親切を感じました。本当に、私達と神様との関係が、 どこまでのことになっていっておるのかです。そして、その神様と私達の関係を取 り結ぶ、縁結びの神が、この成り行きです。  先程も、ある大変な問題に行き詰まった方のお届けがありました。有り難いと思 ったのは、その方が、どん底に行き詰まった時に、初めて初代の『和賀心学』を読 もうという気になられたことです。そして、その中に「和賀心が人間幸福の根本で ある。本気で和賀心になろうと。そうしたら、和賀心になれなくても、なろうと思 うただけでもおかげを頂けるよ」というのがあったというのです。  そこで、こんなに適切な御理解が説いてあると感動して、そのことに取り組まれ たら、翌日、それこそ思いもしないような大きなおかげが入って来たというのです。 結局、これは、おかげ話になりましょうけれども、金光教のおかげの頂きようとい うのは、それこそ自然に然るべきおかげになるということです。  百十七ページを開いて下さい。金光教のおかげの頂きようというのはこういうこ とだと、思うて頂かなければいけないと思います。そこに、教祖様が唯一描かれて いる面白い絵がありますね。「六月十三日、神祭り日早々お知らせ」の次に、その くぼみの絵を描いて、「日本、くぼい所へ寄り、同行水の寄りごとし」と書いてお られます。例えば、今、私の上に現れておるおかげというのは、もうくぼい所に集 まってくるようなおかげなんです。自然なんです。  だから、私は、その方に申し上げました。「本当におかげの受け物というなら、 こういうおかげの受け物を頂かなければいけないよ。そこに、神様とは、どこまで 親切なお方だろうか、と思わずにおられなくなるのです」と。  そこに、それこそ「最初にはさほどに好きではなかったけれど、会うたびごとの 親切が、身にしみじみとしみこんで、今ではこちらが命がけ」ということになって まいります。こんなにも優しい神様なのかと、めいめいが実感できる。それが、合 楽理念の中に説かれていると思います。神様から、「親の言うことを聞かぬ子が一 番つまらぬ」と言われたのでは申し訳ないと思いますね。どうぞ。
平成11年5月1日 月例祭御教話(親先生)  合楽音頭の中に、「時が来た来た 時が来た」というのがございます。いろんな 意味合いにおいて、今、確かに一つの大きな変革の時が来たのだろうと思います。 それこそ、二十一世紀を目の当たりにさせて頂いて、これから、新しい価値観とい うものが、出来上がって来るような感じがします。  今朝、御理解三十七節を頂きました。教祖様を身近に感じます今、教祖様の七十 年のご生涯は、まさにこの御理解そのままに、「生きておる間が修行中」のお方だ ったと思います。それこそ貧しい農家に生まれて、養子に行かれ、七墓を築くとい う大変な目に会われるわけです。皆さん、自分のことと思って感じ取って下さい。 そうでないと、この後の教祖様の信心の段階が分からないのです。  私が、今、どうでも明らかにさせて頂きたいことは、教祖様という方は、確かに 凡人が、神様になられた方だということです。今までは、とても私達凡人では、教 祖様のようになれないと観念しておりました。ところが、教祖様のご信心の歩みが 分かれば分かるほど、教祖様のようにならば、私もなれると思います。  大きいことを言うようですけれども、本当にそれが実感できなければ、教祖様が 泣かれると思います。「教祖様は有り難い方じゃ、尊い方じゃ」とまつりあげて、 教祖様が喜ばれるでしょうか。「教祖様のように私もなれる」と実感し、またその 道を歩いて行くということが、教祖金光大神様の七十年間のおご苦労に報いること になると、私は思います。  私は今度、亀有教会の御大祭にやらせて頂きまして、不思議な成り行きで、葛飾 北斎展とピカソ展に行かせて頂きました。北斎といい、ピカソと言い、百年、時代 を先取りした方ですよ。いわゆる凡人とは違った世界に住んでおる方です。  ですから、ピカソ自身が、自らの製作上の謎を解く鍵として、一切の資料を大切 に保存していたそうです。その展覧会の挨拶文に「この稀代の芸術家は、分かりに くいと評される作品を次々と生み出す一方、自らの作品が時代とともに、あるいは 時代に先行して存在する事を自覚し、後世に自らの評価を委ねるのです」とあるの です。  私は、これを読ませて頂いた時に、『覚書』、特に『覚帳』は、神様が「お前が どうして神の境地まで来たか、を書き残しておけ」と願われて、教祖様が書き残さ れたのものと思わせて頂いたのです。そこで、「教祖様が、どうして神様の位まで お進みになったのか」と今、御理念を通して見ると、その全貌が見えるのです。で すから、この合楽理念は教祖様の信心の解読書なのです。それだけでなく、これか らの、二十一世紀の解読書になるのです。  なぜなら、この合楽理念には、それだけの内容があり、この二十一世紀というの は、本物しか生き残れない時代になるだろうと感じるからです。  今日の御理解は、「生きておる間は修行中じゃ」と。そして次に、「ちょうど学 者が年を取っても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい」とおっしゃって います。どうしてこういう言葉が出るのだろうと思います。本当にすごいですよ。 ですから、例えばいろんな問題に直面された時に、「この問題を通して、神様が何 を分かれとおっしゃっておるんだろうか」と、それこそドキドキして、その問題に 取り組まれたわけでしょう。それに比して、お釈迦様は、この世は苦の世、苦の世 界で終わっておられるのです。  私は今、教祖様の勉強をさせて頂いて、毎日毎日が発見の連続です。そういう意 味で、教祖金光大神様という方は、誰もがお徳を頂ける道を残しておられるという ことです。ところが、今までは、お徳を頂くとか、そんなことは特別な人だけであ ろうというような感覚があったんです。ところが、誰でもが頂けるとおっしゃって いますよ。その実証をさせて頂きたいのです。  これは、威張ってると思われるかも分かりませんが、私は、お徳を頂いてると思 います。それは、お徳というのが、千里眼的なことではなくて、私を中心に成り行 きが働いて下さることであり、この御働きなら、誰もが頂けるのです。  教典の、せめて一ページから十二ページまで、皆さん読んで下さい。この七墓の 件りの大変さが分からないと、次の神様との出会いの感動が分かりません。それが 分からないと、次に、どういうご内容で、神参りをなさったかが分からないのです。 四十二歳以前のお参りの仕方と、それ以降のお参りの仕方は全然違いますから。そ こが分からないと、次の四十四歳の神の頼み始めの内容が分からないのです。実は、 ここから合楽の信心は始まってるのです。合楽では、神様の心を心とする生き方を、 一から習ってるのです。  ですから、神様が私中心に働いて下さっていないなら、お互いが、せっかく、お 参りもした、一生懸命お話も頂いた、確かに同じ精進なのですけれども、ただ自分 の願いがかなうことのためのそれなのです。「身を捨てる信心こそ事は成就します な」と言われるように、自分の思いを捨てての精進であるかということです。本気 で、お徳を頂こうとしているのかということです。  初代の信心の「成り行きを尊ぶ」という階段を上って行くなら、もう誰もが、生 神になれると思います。ですから、教祖様の真似なら、誰でも出来ます。本当に 「私も教祖様のようになりたい」と思って下さい。その日から教祖様とのチャンネ ルが合い出します。私は驚きます。今度でも亀有教会の御大祭に行かせて頂いて、 教祖様がもうそこにここに露出して現れておられるのですから。今、教祖様に出会 える時節と条件を頂いております。一つ本気で教祖様が遺された、このお徳が頂け る信心を目指してみたいと思いますね。どうぞ。
平成11年5月1日 朝の御理解(親先生) 御理解第37節  生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読 むようなものであろうぞ。  花の生命は短くて 苦しきことのみ多かりき 信心がないなら、この世は苦の世、苦の世界。信心しても御利益を追うのみの信心 なら、やはり修行がつらい。 信心を求めての苦労なら、力を受け徳が身について行くのがわかるようになるから、 楽しい苦労である。これが真実の修行になる。 楽をしようには楽ハなく、楽ハせんぞの信心に極楽がある。 清く生きようとするから難しい。此の身このまま助けて下さる神様である。すなわ ち、即身成仏を願う信心である。          (昭51・7・20)  今、この御理解を頂きますと、まさに教祖様がご生涯をかけ、全精力を傾けられ て、産みなされた御理解であるという事が分かります。たった二行の中に、見事に 人生観が凝縮されています。また、この御理解は、初代が亡くなられました、その 朝に頂いた御理解でもあります。初代は、八十年と八ヶ月のご生涯を通して、「私 達が、信心をするということは、一切神愛ということを明らかにすることです」と 教えて下さいました。  「生きておる間は修行中じゃ」と。ここまでなら、お釈迦様がおっしゃる、「こ の世は苦の世苦の世界」ということでしょう。ところが、次に「ちょうど、学者が 年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなもの」と言っておられます。それは、今 日の成り行きで、神様が何を教えて下さるだろうかと、毎日、胸がわくわくどきど きするということです。だから、問題は焦点です。お互いが、生きる焦点をどこに 置いているのかです。  改めて、教祖様のご生涯を見てまいります時に、本当に一生が修行のご生涯です。 七墓を築かれます。そして確かに神様との出会いがあります。神様との親密な関係 も出来ます。けれども、布教してまもなく、山伏の迫害に会われます。それも、来 る日も来る日もという感じで、十年間続くのです。さらに、明治六年の神前撤去で す。さすがの教祖様も、本当に落胆なさっています。  また、神様から願われた建築も、結局、不成就に終わります。これも、棟梁が、 教祖様に対して、ここまでするかというような裏切り方をされるのです。それに、 笠岡の斎藤重右衛門先生のことでも、相当、心を痛めてあります。そして、明治五 年ぐらいから、今度はご長男の正神様が、次々に無心に来られます。それに、二人 の娘さんが、別居して帰ってみえます。その上に、ご晩年には、自分の健康状態が 悪くなって行かれます。教祖様は、そういう中で、「あれもおかげ、これもおかげ」 というようなものをずうっと体験して行きながら、一切神愛を確立していかれたと 言えると思います。  『金光教教典』25ページ。これは、くら様のご病気の件ですが、教祖様は、ここ で、「お広前へ休み、なにかを考えてみ。先前は教えてくださる神様もなし、こん どは結構にお知らせくだされ候。ありがたし。これで死んでもおかげ」という境地 に至られるのです。そして、明治六年に、「何事もみな天地乃神の差し向け、びっ くりということもあるぞ」ということになられます。本当にあれもおかげ、これも おかげということを、だんだん確信していかれます。さらに、明治九年には「よい が難、難がよくなり、難逃れ」と悟っておられます。  そして、明治15年。173ページ22。有名な件りです。これは、「どういう事があ っても、神様のおかげであり、そういう神様の本当のおかげを知った者が、天地の 間にいない。ですから、万国まで残りなく金光大神でき、一切神愛というおかげを 知らせてやる」ということになります。私は、どうでも皆さんに、教祖様のご事跡 の流れというものをきちっと覚えて頂いて、教祖様が一切神愛を確立していかれる 階段をつけなければならないと思っているのです。  教祖様は、間違いなく百年、時代を先取りしておられます。それで、「なぜ、私 がこういう境地まで来たのかという事を書き残しておかなければならない」という ので、この『覚書』『覚帳』を書かれていると言ってもいいと思います。今、私が 教祖様を見る時に、いろんなものが拡大して見えるのです。ですから、ちょっとし た一事でも、こんなに大きく見えます。ですから、皆さんも本気で教祖様の勉強を して頂かないと、私とだんだんかけ離れていく怖さを感じるのです。  教祖様が、大坪総一郎という方が、御一生をかけて明らかにしてくださったのが、 一切神愛ということになります。これは21世紀の主流になることでしょう。例え ば、阪神大震災とか、今、コソボで大変な難民が出ていますが、「それも神様のご 都合の中であっているのです」ということを言ったら、大変な反響でしょう。けれ ども、それが事実ということが証明されたら、世界が変わりますよ。皆さん世界観 が変わりますよ。それほどのことを、私達は勉強してるのです。  ですから、問題は、これを夢物語にしないためにも、お互いが日々の生活の中に、 神様をどれだけ感じていくかなのです。まあ大変大きなことをいうようですけれど も、少なくとも、私どもが確実に、一歩一歩教祖様のたどられた道を歩かせて頂い て、私達の生き方の足取りをしっかり持たなければならな時代になったのではない かという感じがしますね。どうぞ。 <合楽教会御理解目次へ戻る> <日本語表紙へ戻る> --------------------------------------------------------------------------